レコード大賞2020。

久しぶりに三浦大知のパフォーマンスを見た。

年末の特番には次々出ているのは知っていたが、なかなか見られなかった。

新曲の「Antelope」ではなく、「I’m Here」での優秀作品賞受賞だった。

 

今日は紅白が行われるが、やっぱりなぜ、三浦大知が落ちたのか納得が行かない。

どう考えてもよくわからない、というのが正直な感想だ。

一つだけ思い当たるとすれば、三浦大知の音楽のレベルが今の日本の聴衆の現状に合ってない、ということなのかもしれない。

 

三浦大知の音楽の世界はある意味で完成されている。

抜群のダンス力と、パフォーマンス。安定した歌唱力。

アーティストとして見た時、どこから見ても非常に高いレベルで維持されている。

そして、提供される曲は、どれも技術的にも音楽的にも非常にレベルが高い。

グラミー賞に最も近い日本人、と言われる所以が、ここにある。

 

しかし、これは返せば、日本の大衆音楽からある意味離れているのかもしれない。

このところの音楽の特番やレコ大、紅白のラインナップを見て感じることは、三浦大知の音楽の世界はある意味で抜きん出ているということ。

それは音楽の質、パフォーマンスの質、どれを取ってもある意味で、玄人好みと言えるだろう。

いわゆる大衆音楽とはかけ離れた世界にある。

これが、紅白に選ばれなかった理由なのかもしれない、と思った。

 

紅白に選ばれる歌手を見ていると、老若男女、大衆的である。

日本でブレイクする曲は、ある意味、非常に単純で簡単なものが多い。

誰もが口ずさめて、誰もが耳にしやすい。

そういうものが歴代のヒットに数多くある。

 

そういう意味からすると、三浦大知の世界は、抜きん出ていて、大衆的とは言えないかもしれない。

「球体」で見せたように、彼の世界は、言葉と音楽の融合体であり、一種の純文学のような世界だ。

これは誰にも表現できない世界でもある。

しかし、裏返せば、隣のおじいちゃんが「球体」を口ずさめるか、と言えば、そうは行かないだろう。

やっぱり隣のおじいちゃんは、純烈だったり、氷川きよしが良かったりするのである。

 

三浦大知の世界は揺るぎない。

それは、一種の流行やヒットなどというものに左右されない彼本来の音楽の世界が確立されている強さだ。

彼本来の持ち味を生かしたオリジナルの世界。

 

レコ大の出場者のパフォーマンスを見ながら、彼が一つ抜きん出たレベルにいるのをあらためて感じた。

そこだけが切り取られたように別世界だった。

その道を行けばいいと思った。