うたコンで欧陽菲菲の「Love is over」をカバーする氷川きよしの歌を久しぶりに聴いた。

そこには紛れもなくポップス歌手の氷川きよしがいた。

 

冒頭のAメロのフレーズ。

彼は響きを抜いてほぼ無色に近い色合いの歌声だった。

力を抜き、響きだけで、鼻腔に抜いて歌う。

これを聴いた時、

あー、氷川きよしは本当にポップスが上手くなった、と思った。

こういう歌い方は、以前の彼にはなかなかできなかったからだ。

 

彼はこの数ヶ月で長足の進歩を見せている。

以前、ポップスを歌っていた頃は、自分を完全に表現する事をどこか躊躇うような感じが見受けられた。

それはそうだろう。

男臭い演歌の歌。

響きをしっかりつけて力強く歌う演歌の世界と響きを抜いて歌うポップスの語りのフレーズの歌い方は、真正面から対決するものである。

男らしい歌を望むファンは、響きを抜いて口の中で言葉を処理する氷川きよしの歌を聴いて、「なんだ、あれは。へなちょこじゃないか」と思うかもしれない。

どこかに遠慮がちにポップスに転向して行く姿が見られた彼は、この1年ですっかりポップスを歌うことに躊躇いがなくなった。

そして、自由に、華麗に、美しく、彼の音楽の世界を表現している。

今の氷川きよしは、以前の氷川きよしよりずっとナチュラルで魅力的だ。

 

音楽は歌手が自由に表現できる世界である。

そこには何の制約もあってはならない。

歌手が声を吹き込まなければ、曲はただの音符と言葉の羅列でしかない。

その羅列に息を吹き込み、音楽に仕上げて行くのが歌手の仕事だ。

その歌手が感じたままを声に載せて歌う。

これが歌であって、「こうあらねばならない」とか、「こうあるべきだ」というような制約や制限は、歌手の自由な表現を奪うものである。

 

「演歌は男らしくないといけない」

「演歌歌手は男っぽくないといけない、と言われてきた」と氷川きよしは話した。

でも、今の彼の方がずっといい演歌を歌っている。

彼らしく彼にしか歌えない演歌だ。

それと同じように、ポップスを歌う彼もまた、自由で彼らしいのである。

 

アーティストに制限をかけるのはナンセンスである。

自由で思いのままに堂々と自信を持って表現できる世界の安心感があるからこそ、芸術は発展する。

 

彼の歌を聴きながら、そんな事を思った。