リクエスト頂いて、もう一度、この曲の録画を見直した。

この曲を初めて聞いたのが、一昨年の6月。

その頃の彼の歌唱と今回の歌唱を比べてみると、一番の違いは、ずいぶん、熟れたという印象がする。

熟れたというのは、この曲自体の歌い込みと、ポップスを歌うということに対する慣れを感じる。

言葉の処理、リズムの取り方、そしてカウントの刻みかたなど、非常に軽やかであり、力強いものだった。

また、最後、空中を舞いながら歌ったが、あの体勢で歌うのは、体幹がしっかりしているからこそ出来るのであって、そういう意味で、彼の歌の基盤は、演歌の習得によって作りあげられた確かな発声にあると言えるだろう。

 

衣装をめぐるパフォーマンスの意味も本人のコメントがあちこちに上がっているが、

まさに「捉われの身から解き放たれ、白も赤もない自由な世界へと限界を突破した」ということなのだろう。

 

氷川きよしのこの一年半余りの活動を見ていると、彼が自分の意思を表現する事を躊躇しなくなった、という感じがする。

今までの彼のイメージである「演歌界の貴公子」というレッテルは、彼にとって、いつもそのイメージから外れないような言動をする事、イメージにあったパフォーマンスをする事が公私共に彼に重くのしかかっていたのかもしれない、という気がする。

最近のインスタでの彼のコメントを見ていると、さらに彼が先へ先へと進化していこうという意思が見える。

また、その為に起きる軋轢や批判を気にしないで、自分を躊躇する事なく表現しようとする強さは、彼が今までどれぐらい抑圧された中で自分を押し殺してきたのか、それは自分自身も気づかないほど、彼自身、そのイメージの衣を身に付けることに抵抗がなくなっていた事を示し、イメージを脱却する事で、自分本来の欲求や表現を取り戻しつつある姿が、今の姿である事を示しているように見える。

そのエネルギーは、抑圧されていた分だけ、一気に彼の中での表現欲に還元され、進化し続けているように見える。

 

氷川きよしのイメージの脱却は、「限界突破✖️サバイバー」との出会いが一つのきっかけだったが、この曲がなくとも、いずれ彼はアーティストへの転向を試みていたかもしれない。

しかし、この楽曲が彼自身の背中を押しただけでなく、周囲を納得させるのに大きな効果をもたらしたことは確かなことである。

 

歌手にとって、曲との出会いが、ターニングポイントになることはよくある。

氷川きよしにとっては、まさにこの曲との出会いが、歌手人生の大きなターニングポイントであったことに違いない。

氷川きよしの演歌に固執するファンも多いが、私としては、このままボーカロイドのジャンルにも挑戦して欲しいぐらいだ。

そういう高速メロディーを彼がどう歌うのか、どうイメージしていくのか、見てみたい気がする。

さらに進化する氷川きよしは、面白い存在だ。