3日の夜に配信されたジェジュンのLIVE「BOKUNOUTA2020」のアーカイブ配信を3回見直した。

何度観ても、最初に感じた歌声への印象は変わらなかった。

1曲ずつのレビューを書くつもりだったが、どの曲を聴いても問題点は変わらないと感じたので、総論として書くことにします。

 

8曲の楽曲の中で一番出来がいいと感じたのは、「悲しい色やね」

この曲に関しては、アルバムの歌よりも全体的にダイナミックに歌っている。

これは彼が声の状態を戻そうと、しっかり身体を使って歌っているのが要因のように思われる。

楽曲の始まりから、彼はしっかり声を鼻腔に当てに行っている。

この曲はこの日の3曲目で、いつもの彼の調子なら、このあたりから徐々に声帯の反応が良くなり、声が伸びてくるのだが、この日は、どんなにブレスを送ってもいつものような伸びは感じられない。

その為、彼は力で押して声帯の反応を促す歌い方になっている。

この曲のハスキーな歌声は、声帯を擦り気味に合わせることで作り出されている歌声だが、この曲に限っては、それが声帯をくっつける作用となっている。

また意識的に身体を動かし、ブレスを送り込むことでアルバムの歌よりも幅の広い歌声になったのと、ロングトーンをアルバムの時よりも長く伸ばすことで全体の曲の印象がダイナミックな楽曲へと様変わりしている。

 

それにしてもこの日の彼の歌声は、何度聴いても、状態が悪い、と言う印象を拭えない。

先ず、全体に彼の持ち味である声の伸びがない。

一枚、幕が張ったような感じで、声が前へ突き破ってこない。

スモークがかかったような響きになっている。

そして一番懸念するのは、中音域に艶のないことだ。

今まで彼の歌声の調子が悪い時でも、地声の音域である中音域に関しては幅のある甘い響きになっていた。その音域に戻りさえすれば、声は調子を取り戻していたのだ。

しかし、この日の彼の歌声には、その要となる中音域が全く響かなかった。

これは彼自身が歌っていて一番感じていたはずだ。

どんなに調子の悪い時でも、中音域は鼻腔に当たって綺麗な響きを奏でるのが彼の持ち味で、高音部がどんなに突き上げるような歌い方になっていても、中音域だけは伸びのある甘い歌声になっていた。

だがこの日の彼の中音域には、その持ち味である甘い響きがなかった。即ち、中音域でも声帯のくっつきが悪かったことを示している。だから、一枚、幕が張ったような感じになり、こちら側に歌声が突き抜けてこないのだ。

 

この原因として考えられるのは、1つは練習不足による声帯そのものの筋肉が痩せてしまっていること。

そうなると声量が落ちる。

この日の彼の歌声には豊かな声量が感じられなかった。

痩せて細い歌声の印象があった。

そして、声帯の動きそのものが悪くなる。歌っていない為に筋肉の反応が遅れる、または動きにくくなる。その為に声帯のくっつきが悪くなり、声そのものの響きの当たりが悪くなる。

これらは、どんなにブレスを送っても改善されない。

即ち、根本的にしっかりと声を出して筋肉を戻して行かない限り、声量や響きが戻らないと言う事になる。

 

スポーツなら、筋肉が落ちれば機能そのもののパフォーマンスが落ちる。

それと全く同じことが「歌」にも言える。

声帯が筋肉である限り、練習をしないと筋肉そのものが落ちてしまうのだ。

そうなると、根本的に練習量を増やし、筋肉そのものを鍛えて行かないと、どんなに出し方を工夫しても声量や響きは戻らない。

 

では「歌」にとっての練習は何かと言えば、「歌うこと」

これに尽きる。

歌うこと以外に、実際に声を出して練習すること以外に、声を戻す方法はないのである。

 

なぜ、アルバムの収録時の歌声と違うかと言えば、あの頃は、彼は毎週のように音楽番組に出て歌っていた。

2月頃から、頻繁に歌う機会があった。

しかし韓国に戻ってからは、歌う機会があったのかと言えば、それほどあったように感じない。

彼は「練習はしない」とかつて言っていたが、若い頃と違って、これからの年代は練習しなければ声帯は衰える。

何もしなくても伸び伸びと歌声が出ていたのは20代までの話だ。

今後はそうは行かなくなる。そして、それを支えるのは練習量という歌の基礎体力がどれぐらい備わっているかだ。

 

多くの日本の歌手達は、本番がなくても歌っている。

いつも練習している。

松田聖子ですら、一年の三分の一以上はスタジオにいて、音楽作りをしている、と言っている。

 

コロナの時期、多くの日本の歌手達は、歌う場所がなくても、自分で配信をしたり、曲を作って誰かとコラボしたり、と、何とか歌う場所を作って努力していた。

だから、夏になって特番が組まれても、歌声やパフォーマンスが落ちている歌手は誰1人見当たらなかった。むしろ、「やっと歌える」という喜びを爆発させて集中した歌声を聞かせる歌手が多かった。

これが日本の実情だ。

韓国はどうだったのだろう、と私は思う。

少なくとも彼に関しては、OSTの歌声は公開されたが、それ以上に音楽や歌に向き合っていたという印象を持たない。

日本のアーティスト達のように「音楽」への渇望感を抱かせるものはなかったように思う。

その結果が、この歌声なのではないか。

 

そしてもう1つの大きな要因は、韓国語だ。

韓国語は、その言語的特徴から、どうしても喉に響きが落ちやすい。韓国語を綺麗に発音しようとすると、わざと喉に響きを落として発音しなければならない単語がいくつもある。

彼は4ヶ月以上、韓国語で話していた。

日本に来て、いきなり日本語で日本語の歌を歌っても、それは日本語のポジションでは歌えない。なぜなら、声帯は普段使っているポジションを覚えているからだ。

どんなに使い分けても、日常のポジションを覚えている。

ましてや日本語は彼にとっては外国語であり、そのポジションで歌を歌うということは、頭ではわかっていても身体の反応がついていけない、ということになる。

韓国語と日本語では、発声ポジション、喉の奥の開け方、響きを当てる場所が明確に違う。だからこそ、彼の韓国語の歌と日本語の歌とに歌声の違いが出るのである。

韓国語の発声ポジションを覚えたまま、日本語の歌を歌ってもどうしても韓国語のポジションの歌になる。

それが声が前に飛ばない、伸びない原因の1つではないかと感じる。

 

彼の日本語の歌が伸びのある透明感の多い声質になっていたのは、日本語の発音の場合、喉の奥を縦に大きく開けるからだ。それに比べて、韓国語の発音は、扁平的な形になる発音が多い。

その為、韓国語では、彼の歌声は縦に丸い伸びのある響きにならず、扁平的で喉が詰まったような響きになることが多い。

それは言語の違いによる喉の奥の開け方に起因すると考える。

今回の歌声が、アルバムと違うのは、普段使い続けていた言語の違いで、アルバム収録時は日本にずっと4ヶ月滞在していた時期の最後になる。

これは東方神起時代、日本の活動に集中して歌い続けていた結果、彼の歌声が伸びやかで透明性のある歌声になったことの要因でもあり、もし、東方神起が韓国での活動を主にしていたなら、彼の歌声はもっと違う歌声になっていたに違いない。

言語が歌声に与える影響は小さくないということの現れでもある。

 

この日の最終曲、「逢いたくていま」の歌声は、BGMの歌声に混ざってしまうほど声量が落ちていた。

表現力云々の前に、声そのものを鍛え直すことが課題だと私は思う。

 

今後の日本での活動が、どれぐらい歌番組が入っているのか、彼の歌声が戻るか戻らないかも含めて、彼の歌声の今後を占う大事な時期になるだろう。