この歌もジェジュンにとっては特別の意味を持つものなのかもしれない。
この歌が初めて披露されたのは2018年の「The Reunion」のコンサートだった。
冒頭の歌詞「僕が死のうと思ったのは」が余りにも衝撃的だったのと、それを歌う彼の歌声も悲壮感に満ちていた。
それは過去との決別と少しの希望を未来に見出し生きていこうと思った男の歌だったからだ。
長く日本から離れていた彼が、メジャーと言えないこの曲を選択したのが(誰かのススメによるものだったとしても、それなら尚更なぜこの曲を選んだのかということも含めて)意外でもあった。

尾崎豊の歌もそうだが、この曲は歌い手に綺麗な歌声を求めない。
心の奥底から絞り出すような感情の吐露。
これがこの曲の全てである。
だからこそ歌い手はこの曲に全身全霊を傾けて歌う。
血が滴り落ちるかのような告白に綺麗な歌声はいらない。

ジェジュンはこの歌を太く濁った音色で歌う。
ポジションなどどうでもいい。声が掠れてもひっくり返っても構わない。
言葉を絞り出すかのようにエネルギーの全てを乗せて歌う。
そこに距離感は全くない。
言葉の世界に同化した彼の姿があるだけだ。
そして彼は自分自身の感情を同化させる。
それほどにこの歌は彼が辿ったであろう感情を聴衆の心に残していく。

最初に歌った時と今回の歌とでは何が違うかと言えば、それは彼自身の感情の違いだろう。
2018年当時は彼そのものが歌に投影されていたのに対し、今回の歌は彼が完全に過去の感情を克服し歌手として楽曲を歌っているという距離感があった。それは非常に歌いこまれた言葉の消化と充実した歌声から感じるものであった。

歌にはその時の歌い手の感情が投影される。
だからこそ同じ歌は二度と聞けない。
なぜなら全く同じ感情を持つことはできないからだ。
それゆえに歌は「瞬間の芸術」であり「消え去る芸術」であり、「唯一無二のもの」なのだ。

この曲はジェジュンという歌手の「歌に心情を載せる」という主体的で距離感のない特徴を非常によく現している曲と言える。