何度も聴いたこの曲。
初日の彼の「化粧」は、今までの重苦しいまでの悲壮感から、切々とした中に淡々とした女の情感が漂う歌に変わっていた。
それは、彼の「化粧」に対する思い入れの変化だったかもしれない。
確かにジェジュンにとって、「化粧」はJPOPのカバー曲の原点であり、この曲があったからこそ、今回のカバーアルバムに繋がっていると言っても過言ではない。
彼がこの曲を初めて披露した2013年は、彼がソロ歌手に舵を切った年でもある。
東方神起、JYJというグループ音楽の担い手の一人として歌手であり続けた頃の音楽感と、一人の女性の切々とした女心を歌い綴る音楽感では、大きくかけ離れたものがある。
この「化粧」をチョイスした時点で、彼は既にJPOPのソロ歌手としての歩みが始まっていたとも言える。

それほど彼にとって特別な思い入れのある曲を企画とは言え、初対面の相手とコラボする。
ここに彼のこの2年の歌手としての余裕を感じないわけには行かない。もし、彼が2013年の頃の状態であったなら、他人とコラボして大事な曲を歌うチャンスを譲ったりはしなかっただろう。
自分の音楽の世界を他の人間の音楽の世界とコラボするだけの精神的余裕がこの2年の歌手活動で彼の中に芽生えていたということの証なのかもしれない。

「化粧」のコラボがうまく行った一番の要因は、二人の音楽性にある。
特筆すべきは、Mattのピアノ力だった。

歌の伴奏というのは、簡単なようで非常に難しい。
それは歌手の呼吸にピアノを合わせる能力が要求されるからだ。
伴奏に向く人とそうでない人に別れるぐらい、その能力は教えられて身につけるというよりは、元々備わったセンスが占める比重が大きい。

Mattという人がピアノを弾けるということは、正直、昨日初めて知った。
さらにあれほどの実力を持つということが驚きだった。
それは、彼がジェジュンの歌にピアノを合わせ切ったことからもわかる。
彼はジェジュンの表現する「化粧」の世界を十分に理解していた。
イントロの澄んだ音色は彼の元々備わった能力であり、歌が始まれば音楽の流れの中でジェジュンの歌に合わせる。
Mattの音は、ある時はジェジュンの歌に寄り添い、ある時はジェジュンに音楽の流れを促す。単に寄り添うだけの伴奏ではなく、音の流れを提示してジェジュンの歌の流れを促していく。
たった一度しか伴奏合わせをしていない中でこれだけの音楽の一体感を出せるのは、元々の感性が似通っているか、Mattという人が相手の音楽を瞬時に理解して合わせていく能力を持ち合わせているかのどちらかだと感じる。

そして何より、あれだけの観客の前でミスなく弾ききった、ということがこの人の実力が半端でないことを示しているのだ。

ピアノを弾く緊張感は、生半可なものではない。
それはジェジュンが何度弾き語りを期待されても、「ピアノは僕が弾くより上手い人に任せた方がいいからさ」と言うぐらい、気軽に自分だけの楽しみの中で弾くのと、人前で弾くのとでは緊張感に雲泥の差があるからだ。
どんなに練習し、完璧に仕上げても緊張することでミスは起きる。
特に化粧のイントロ部分は、一音でもミスタッチすれば誰もがわかる。イントロだけでなく、歌とピアノだけのコラボはそれぞれの音が交錯して立っていくから、言い知れぬほどのプレッシャーがあったはずだ。
それを笑顔で乗り切れるだけの度胸と実力をMattは兼ね備えていたということになる。

そしてジェジュンの化粧は、前日に比べて、優しさが増していた。それはMattという人のピアノの音色が優しかったからに他ならない。
いつも伴奏しているtatsuya氏のピアノの音色とは異なる音色を受けるから、ジェジュンの歌の音色も変わる。

このように別の人とコラボすることで違った化粧の世界が醸し出されるのは、2人がそれぞれの音楽をきちんと提示しあったからこその成果と言える。

「化粧」は、演奏者の音楽感によって、いくつもの世界を提示するだけの奥の深い楽曲であることを示した。

2人のコラボは、また別の機会にあるかもしれない。
ジェジュンが音楽を勧めるほど、感性に違和感がなかったのだろう。
他の人の音楽感に触れてコラボするのは新しい自分の発見にも繋がる。

繊細な音楽の世界が出来上がる。

そんな気がした。