記事内容を一部訂正しました。(赤字部分)
この曲を聴くのは、二度目だった。
一度目は、今年初めのNHKの「うたコン」で聴いたときにレビューに書いた。
https://vocal-review.com/2020/01/07/himawan-r-3/
今回聴いた「ボヘミアン・ラプソディ」はまさに彼が初披露した時のもので、あちこちに物議を呼んだものでもある。
その歌唱を聴いた。
非常によく歌い込まれた歌。
非常によく練習された歌という印象を持った。
そして集中力。
彼のこの歌にかける集中力が素晴らしかった。
先ず、コンサートの終盤にこの大曲を歌える彼のエネルギーが素晴らしい。
この曲は以前も書いたと思うが、非常に大曲で、声のコントロールが難しい。
オペラをイメージして作った楽曲だけに、アリアの部分、アンサンブルの部分、そして語りの部分。
そのパート毎に声の色分けが必要とされる。
声を張り上げたかと思えば、語る。語ったかと思えば張り上げる。
これだけでもどれだけの声のコントロールが必要だろうかと思う。
さらにメロディーラインが低音域から高音域を行ったり来たりする。
ボイスチェンジのある歌手は先ず歌えない。チェンジしている暇がないからだ。
音楽はテンポ良く進み、歌手の歌い憎さなどお構いなしだ。
音符が好き放題、五線紙の上を飛び回る。
長音符から短音符まで自由自在に組み合わされたリズム。
歌手は、それらの音を歌い上げ、さらに一曲の楽曲に纏め上げなければならない。
声量もテクニックも高度なものを要求される一曲だ。
これはフレディが自分が歌うことを想定して作られている。
自作曲の場合、概して言えることは、自分のテクニックのレベルに合わせて作られているということだ。
だから高度なテクニックを持つものが楽曲を作った場合は、器楽曲でも歌曲でも非常にハイレベルな楽曲が出来上がる。
「ボヘミアン・ラプソディ」はそういう意味で歌手泣かせの曲であり、フレディ以外の歌手が歌うことを想定して作られていない。だから、カバーした場合、歌手の技量が丸裸になり、楽曲と釣り合っているかどうかが素人でもわかる。
この楽曲のスケールの大きさをそのまま受け止め、さらにそれを纏め上げるだけのスケールの大きさを持つものでなければ、決して歌えない。
氷川きよしは、そういう意味で、非常にハイレベルな歌手であることを証明している。
彼の歌には淀みがない。
この楽曲を真正面から受け止めて、誠実に歌の世界を具現している。
声量のある歌手にありがちな自分の色を楽曲の中にねじ込むということを全くしていない。
楽曲の世界をそのまま受け止め、理解し、自分の中で消化させるまで歌い込んだ、という印象を持つ。
曲を自分の側い引き寄せ、消化し、あらためて作り直した、という印象を持つ。
即ち、氷川きよしの歌手としてのスケールは、この楽曲のスケールの大きさに一歩も引けを取らない。
しっかりコントロールされた歌声は、低音域から高音域まで一切破綻がない。
さらに囁くように語る部分では無色のブレスを多用した息遣いの歌声で、言葉のエッジだけを立てている。
張り上げるように歌う高音部でも、演歌特有の粘りや濁りがなく、ストレートな綺麗な鳴りのいい歌声だ。
これほど彼の歌声が多彩に使われている楽曲は他に見当たらず、また彼がこれほど多彩な色合いを歌声に持っていたというのも新たな発見だった。
歌手は楽曲によって成長する。
取り掛かった時には、歌いこなせない曲でも、練習を積み、消化していく中で、歌手の持つ力量は上がり、歌いこなせた頃には、スケールが一段と大きく成長している。
彼は、この曲をこのコンサートの9日前に楽譜を受け取ったとのこと。
僅か9日間でここまで歌い込み、仕上げてくる。
ここに彼の歌手としての集中力と底力を感じる。
彼は今後、どんなジャンルの音楽に挑戦していくだろうか。
豊かな声量と色彩を持つ彼の世界は、どんな楽曲にも対応出来る可能性を秘める。
歌手氷川きよしは進化し続ける。