Mステのオープニングで彼女達がカバーしたドリカムの「何度でも」を聴いた。

彼女達らしい音の響きの世界だった。

 

ドリカムの「何度でも」は余りにも有名な曲だ。

2005年12月に35枚目のシングルとして発売された。

 

コロナの感染拡大で、今、アーティスト達はほぼ失業状態に近い。

歌う場所もなく、ファンとの交流も出来ない。

歌ってファンと交流することで、自分の存在価値を見出してきた彼らにとって今の状況は余りにも過酷で、鬱屈とした気分に陥りかねない。それでもどこかに活路を求めて活動していくしかない。

彼女達の力強い歌は、そんなアーティスト達の溜め込んだ感情を一気に爆発させるかのような歌だった。

 

吉田美和の歌が濃密な色彩の歌の世界なら、彼女達の世界は若いエネルギッシュな世界だ。

 

リトグリの歌は、ソロパートの声を背後で複数の声によって支えるという多重ハーモニーの世界だ。

ソロの吉田美和との歌の世界と最も違うと感じさせたのは、後半のこの部分。

 

「何度でも何度でも何度でも
立ち上がり呼ぶよ
きみの名前 声が涸れるまで
悔しくて苦しくて
がんばってもどうしようもない時も

きみの歌を思い出すよ
この先も躓いて傷ついて傷つけて
終わりのないやり場のない怒りさえ
もどかしく抱きながら
どうしてわからないんだ?伝わらないんだ?
喘ぎ嘆きながら 自分と戦ってみるよ」

 

この何度も何度もフレーズがリフレインし、畳み掛けるように言葉を紡いでいくこの部分で、彼女達の歌はハーモニーと言葉をシャワーのように聴衆に浴びせかけていく。

アップテンポの中で、言葉がメロディーのテンポの中に落ち込んでいかないように、それぞれのメンバーが尖ったタンギングで言葉を処理していく。

 

「何度でも」は畳み掛けるような言葉の羅列と、ロングトーンのゆったりした言葉の羅列という相反するテンポ感で構成されている楽曲で、その緩急のリズムの切り替えを歌うのに歌声のコントロールが非常に難しい。

彼女達の場合は、その部分をボーカルユニットという複数のメンバーを配置していくことで、うまく処理している。また複数のメンバーで歌うために、ソロで歌うよりさらに立体的にこの音楽の特徴が顕著になっている。

複数のメンバーで畳み掛けるように歌うフレーズはリズム感といい、言葉の処理感といい見事だ。

リトグリという多重ハーモニー音楽でしか表せない世界を描ききった。

 

自粛期間中、さらに彼女達はボーカリストとしての腕をあげた。

そう感じた。