最後に追記してあります。

 

三浦大知がリモート出演した「A-Studio」を観た。

三浦大知を中心に周囲を45人のコーラスやバンド、オケの人間が取り囲むような映像で「I’m Here」を一斉に演奏し、一曲に仕上げた映像だった。

それぞれが自宅でそれぞれのパートを録画し、それを編集の人間が一つの映像に纏め上げ、一曲に仕上げている。

この手法は、コロナ感染が拡大しロックダウンが続いたフランスの交響楽団がオーケストラメンバー25人の映像を一つに纏め上げ、ラベルの「ボレロ」を演奏したことに始まり、世界中のオーケストラの楽団員が自宅で演奏しながら一つの曲を作り上げ、配信している。

コロナショックの裏で音楽を届け続けるアーティスト達

 

そういう流れの中で、当然、日本のアーティスト達も様々な方法で繋がろうとしている。

先日、物議を醸した星野源の「うちで踊ろう」もリモート演奏の映像に多くの人間がコラボして映像を配信しているし、三浦大知も参加した「Be One」という一曲を歌い繋いでいくというイベントもそれぞれの歌手達が自宅でリモート演奏したものを繋いでいく手法だった。

「Be One」で繋がるアーティスト達

コロナ感染が世界中に広まり、一切のアーティスト活動ができなくなった。

演劇も音楽も踊りも、何もかも芸術に関する表現活動が一切禁止され、芸術に携わる人間達は、自宅待機を余儀なくさせられている。

しかし、元来、芸術活動というものは人間の自由な表現活動の手段として発展してきた役割を持つ。

人間は誰しも自由に表現したいという欲望を持つものであり、抑圧され、自由が奪われてもなお、表現しようとした芸術家は山のようにいる。それは時には命と引き換えにそれを手に入れるほどの心の底から奔り出るような人間の欲求でもあったりする。

 

今回のコロナは、先の世界大戦以降、全世界を巻き込んだ人間の自由をある意味奪うものであり、それらの環境の中で、尚且つ、アーティスト達の自己表現欲の炎は、消え去ることなく、燃え続けているということの現れでもあることを、これらのリモート活動は表しているように感じた。

 

手段は変わっても音楽は死なない。

 

そう多くのアーティスト達は訴えかけているように感じる。

 

人間がいる限り、音楽が生まれ、音楽がある限り、アーティスト達は表現を諦めない。

 

リモートは、たとえ遠く離れていても、心を合わせて一つのものを作り上げていく、という芸術の原点を示したものかもしれない。

 

そう思った。

 

追記

三浦大知の今回のリモートによる「I’m Here」が通常の演奏と何がどう違うのかと言えば、離れてしか音楽が出来ない、一緒に演奏できないことのもどかしさと、空想の中で彼の歌声を聴きながら演奏する、コーラスするという期待感のような喜びに溢れた各人の熱量がそのまま映像に溢れている演奏だったように思う。

彼の歌はいつもと変わらず非常にリズミカル。正確で揺れないリズムの取り方が根底にあるからこそ、これだけの人数の人間が音を合わせてもブレがないという状態になるのだと思う。そこには彼の音楽の芯がしっかり各人に伝わり、理解されているからこその一体感であり、まさにチーム三浦がバラバラになっていても機能している証拠とも言える。

チーム三浦としての各人の自負のようなものを非常に感じたリモート映像は、多くの人の感動の涙腺に触れたことだけは確かなことだと思った。