VocalMakingの観点から…

私は、ファンではないから、三浦大知という人の印象は、「踊りが上手いストリートミュージシャン」という印象しか持っていなかった(ファンの人に怒られそうだが…)

なぜなら、視覚的印象として、ダンスが上手い、という印象だったからだ。

視覚と聴覚では、視覚が9割、聴覚が1割と言われたりするほど、圧倒的に視覚からの情報力が強い。

歌の勉強を始めた頃、ステージに立つ前に必ず言われたのは、「笑え」だった。

「殆どの観客は、歌など聴いていない。顔を観て、姿を観て、雰囲気で聴いてるだけだ。だから、どんなに自信がなくても、どんなに上手く声が出なくても、観客席に向かって笑いかけたらいい。そうすれば、観客は、歌が上手いように錯覚する」

これは、新米の私がステージで上がらないようにとのアドバイスだったと思うが、その後も実感するようなことは度々あった。

多くの観客は、歌を聴いているようで、聴いていない。

殆どが、歌を歌う歌手の顔を観ていると言っても過言ではないかもしれない。

視覚は、聴覚に勝る。

目から入ってきた情報の方が耳で聴く情報よりも圧倒的にインパクトが強いからだ。

だから、極論かもしれないが、到底、歌とも思えないような歌い方のアイドルが、十分、人気を得たりする。

そういう人間のありがちな感覚から見れば、三浦大知という人の印象は、非常にダンスが上手い歌手、というものだった。

でも違った。

実際に彼の生歌を聴き、バラードを聴いた。

今まで躍動感溢れるステージを展開していたのに、一転、静寂に包まれたステージになった。

見事な切り替えだと思った。

昨夜の彼の「愛燦燦」を聴いた人は、彼の歌の上手さを実感しただろう。

きっと今までの印象を払拭した人は多かったに違いない。

それは、静のステージで、聴覚が視覚に勝ったからに違いない。

何のパフォーマンスもない、マイク一本をただ持ち続けて歌う姿からは、視覚からの情報は固定化され、その代わりに神経は、聴覚へと集中する。観客から聴衆へと変化する。

何のパフォーマンスも無く、唯、歌い続けることが出来る力を持つ人間だけが、本当にソロ歌手として生き残れる。

アイドルグループからソロ歌手に転向する人が多い。

その時の難しさは、並大抵ではない。

今まで、視覚的に優れた容姿を持ち、グループの中で分割されたフレーズだけを担当していた人間が、ソロ歌手になったとたん、すべてを一人で担わなければならないからだ。

曲の最初から最後までを一人で歌い通すだけの力。

自分一人だけに観客の視線を集中させるだけの存在感。

そして、派手なパフォーマンスもなく、マイク一本で聴衆を釘付けにするだけの表現力。

それだけの力を持ってこそ、その上にパフォーマンスをすることが出来る。

よくグループでメインボーカルだったのに、ソロになった途端、それほど輝かない人がいるのは、ソロ歌手として立っていくだけの力量が備わっていない為だ。

グループでメインを担当していたからといって、ソロで立っていけるかどうかは、また別問題になる。

観客としての視覚と聴衆としての聴覚を圧倒するだけの力を兼ね備えていなければ、ソロ歌手として存在することは難しい。

三浦大知の生歌を聴いたとき、ダンスのパフォーマンスよりも私には、彼の澄みきった歌声と明確な日本語が耳に届いていた。

即ち、彼の歌声は、私の視覚よりも聴覚を圧倒的に刺激したということになる。

彼は表現者としての評価が高いが、その評価を支える大きな柱は、彼のソロ歌手としての力量であることだけは確かなことだ。