ネタバレは三浦大知のファン社会ではご法度のようなので、具体的に一曲ずつのレビューを書くことはやめておこうと思う。それでも若干のネタバレはあるかもしれないので、知りたくない人は読み進めないで下さい。

「COLORLESS」と題されたライブ。

この「COLORLESS」の意味について考えてみた。
「色がない」「「無色の」という意味なのかと思う。
これが三浦大知の今の心境ということなのかもしれない。

私は歌手にはふた通りのタイプがいると思う。
一つは、自分の色を持たず、楽曲によってどんな色にでも染まっていくタイプ。
もう一つは、あくまでも自分というカラーを持ち、楽曲を自分の色に染め抜いていくタイプ。

三浦大知はどちらのタイプなのだろう。

彼は特色のある歌手だ。
ダンスパフォーマンスは飛び抜けている。また「球体」で示したように彼の歌は、音楽と一つになって物語を奏でる。
しかし、だからと言って、楽曲を自分の側に引き寄せ、自分の色に染め抜いていくタイプなのかといえば、そうではないと私は感じる。
いつも音楽に対して、彼のスタンスはフラットな状態だ。
音楽が提示され、音が飛び交っていく中で、彼の表現は始まる。
それはある時は、音楽と対等に力を放ち、ある時は、音楽にこの上なく寄り添っていく。

彼と音楽との距離感は、縮まったり離れたりする。
そこに彼の強い意志を感じるというよりは、音楽の流れの中で結果的にそうなっていく、という印象を持つ。

この日のライブでも私はそれを感じた。
非常にエネルギッシュなステージだった。
そこには彼の強い意志が反映されているように感じる。しかし、バラード曲への流れの中で緩急をつけた構成は、彼の意志というより、彼が選曲した楽曲の音の流れの中で生まれてきた自然な流れのように感じた。

この日、彼は非常に調子が良かった。
歌声が抜群だった。
彼の特徴的な甘い音質は遺憾無く発揮されたし、ファルセットのコントロールも申し分なかった。
なかなかライブに於いてベストコンデイションを作って来ることは難しい作業だが、そういう点で彼は完璧だった。

 
三浦大知という歌手は、何色にも染まる、という可能性を示したライブでもあったと思う。
そして彼の音に呼応して客席も何色にも染まるのだ。
まさに彼が言った「皆さんがライブに色をつけた」というステージであり、アーティストの魅力を引き出し、何色にでも染めていくのは、聴衆の力であることを指し示した。

きっと大阪には大阪の色があり、東京には、また別の色がある。
地方に行けば、その土地の色に染め抜かれていく。

そんなコンサートが今回の三浦大知のライブであり、彼自身が色を提供するのではなく、聴衆とともに作り上げていく、染め抜いていくステージなのだ。
それが出来るのは、彼自身がいつもフラットで無色であるからに違いない。

彼のコンサートを拝見するのは、これで二度目だが、確実に新しいコンセプトに挑戦していることがわかる。
おそらく昔から観ている人にとっては、もっと進化を感じるものなのかもしれない。

彼は確実に前に進む。
そして新しい試みに挑戦してくる。
そうやって三浦大知の音楽の世界は広がっていくのだと感じた。

楽曲の流れの中に組み込まれたいくつかの「球体」は、確実に三浦大知の文学の世界だと思った。

彼は音楽と文学を融合させられる唯一のアーティストだ。

彼が連れていく世界の景色を見てみたいと思った。