印象的なのは、歌いだしから、丁寧な発音の日本語が続くことだ。

非常に明解で、癖のない綺麗な日本語の発音が続く。

東方神起の頃から、この人は、癖のない正確な日本語の発音をすることで知られていた。しかし、その頃よりも今は、一段と明確で綺麗な発音をしている。

尾崎豊の歌は、メロディーもさることながら、歌詞に重要なメッセージが託されている。即ち、彼のほとばしるような情熱や、愛情、苦悩や葛藤という世界は、メロディーや歌詞と共に、心の底から搾り出すような歌声とが一体化して、尾崎独特の世界が現されている。

同じように愛情を歌った「I Love You」と異なり、「Forget-me-not」には、切ない愛情の姿が描き出される。

その姿は、歌詞の言葉の一つ一つに込められているが、尾崎豊の歌声の色合いそのものも、それらを現す相乗効果をもたらしている。

その尾崎の歌の世界をジェジュンは、彼自身の歌声の色合いを微妙に変化させることで、描ききっている。

たとえば、歌いだしの部分は、柔らかで穏やかな音色が続く。

「窓を叩く風に目覚めて…」では、少しずつ音楽が前に動き出すが、彼の歌声は、穏やかでソフトな色合いが続く。

彼の歌声が動き出すのは、「そっとささやいて、強く君を抱きしめた」からだ。

この部分で、彼は、歌声の色合いを濃い充実した響きに変えていく。

「はじめて君と出会った日、僕は、ビルの向こうの空をいつまでもさがしてた」

「君がおしえてくれた花の名前は、街に埋もれそうな小さな…」

この部分では、彼の歌声はさらに太く充実した濃厚な響きを奏でる色合いを見せる。

そして、最後の「…わすれな草」

この最後の一言で歌声の色合いは一気に変わる。

即ち、「わすれな草」の言葉の「わ」の入りは、非常に繊細な色合いになっており、それに続く「すれな草」という音節が情感を抑えた言葉の終わり方になっているのである。具体的に言えば、最後の「kusa」の子音kと母音aの納め方が、非常に細くクリアな色合いになっている。

また、後半部分の音楽がどんどん前へと動き出す部分に対し、

「行く宛のない街角にたたずみ、君にくちづけても」「幸せかい、狂った街では、二人のこの愛さえ…」

ここまでは、彼の歌は、その場所に踏みとどまって、決して前へと流されていかない。一言一言を非常に丁寧に歌い綴っている。

彼の歌が動き出すのは、これらに続くフレーズ

「…うつろい踏みにじられる」

この部分からだ。

一気に彼の歌声は深みを帯び、濃い色合いに変わっていくことで情感を現している。

最後のフレーズへと続く部分

「時々、僕は君を僕の形にはめてしまいそうになるけれど…」

この部分の「なるけれど」で、彼の歌は、もう一度、しっかりその場に決然と踏みとどまり、充実した響きの色合いを披露する。

そして、サビの部分「二人がはぐくむ愛の名前は」で一気に情感を込めて歌い上げていく手法が取られている。

最後のフレーズ「街にうもれそうな小さな…」は、色合いを急激に変化させ、

最後の一言、

「わすれな草」は、語るように終わらせている。

このように彼は、韓国人でありながら、日本人の情感の移り変わりの機微を見事に歌いきっている。

これは、彼の日本語に対する理解力が、通り一遍の言葉の意味を理解するという範疇を越え、言葉の持つ微妙なニュアンスや、その世界観まで深く理解していることを現している。即ち、彼は、韓国人でありながら、日本語の言葉の意味から、イメージを膨らませ、具現することが出来る理解力と想像力を持っているということになる。

これが、今回、多くの人に高く評価されている点ではないかと思う。

実は、私は、この曲をこれ以前にも彼のステージで聴いたが、コンサートの時に比べて、今回の歌は、彼の歌声の色合いが強く出されていると感じた。コンサートでは、どちらかと言えば、尾崎豊の声の色合いに非常に似通った歌声を現そうとする意図が見えたが、今回は、彼のオリジナリティーな歌声が強く反映されていると感じた。

彼は、多彩な色合いの歌声を持つ歌手である。

その色合いは、曲によっても、また一曲の中でも多種多様に変化する。

その歌声の変化をこれから分析していきたいと思う。