中西保志の「最後の雨」は多くのJPOP歌手がカバーしている。
この曲はJPOP中のJPOP。この時代の最も特徴的な歌だと感じる。
この歌を氷川きよしが歌っているというのが意外だった。なぜなら今まで聞いた彼のJPOP曲のカバーは、どちらかといえば歌いあげる歌が多かったからである。
この曲は前半のめAメロ、Bメロが低音域で軽いフレーズだ。リズムが横に揺れ、音楽が横に流れていく。
この「横に流れる」というのが実は演歌歌手にとっては一番苦手なのではないかと私は感じる。
演歌は縦刻みの曲が多い。音楽的に言うと「決然と」した音楽の流れが多く、特に男性曲ではリズムが縦に刻まれる。またレガートな横に流れる部分はサビに使われることが多く、力で押して歌い切るという音楽が要求される楽曲が多い。そのため、演歌歌手は、ロングトーンで声を張り上げる歌声が求められる。
氷川きよしの歌い方はその典型で、軽快にリズムを刻んで、その上に言葉を載せていくJPOPの曲調とは全く違う路線の歌を歌ってきた歌手とも言える。
JPOPは2000年代になって、特に言葉数が増えたと感じる。その言葉の多さを処理するのに細かい刻みのリズムが多くなった。ゆったりとした曲調の演歌歌手にとっては、細かく刻まれる言葉をどのように処理できるかが、JPOPのカバー曲を歌えるかどうかの別れ道になる。
「最後の雨」はどちらかと言えばゆったりとした曲調で、前半の刻みもそれほど多いものではない。
しかし、この部分を軽く歌えるかどうか、言葉の処理がうまくできるかどうかによって、後半のクライマックスがエネルギッシュに歌えるかどうかが決まる。前半のメロディーが軽く処理できなければ、後半のクライマックスが生きてこないのだ。
前半の横に揺れる軽いメロディーからは、後半の一気に畳み掛けるようなクライマックスのエネルギッシュなサビは想像出来ない。その一気感をどれぐらい表現できるか、歌手本人が前半の切ないメロディーから、さらに甘く切ないメロディーへと歌い上げていく高揚感をどれぐらい表現できるかが、この曲を上手く処理できるかどうかのポイントとも言える。
最近の氷川きよしのカバー曲を聴いていて、一番感じるのは、低音部の軽さだ。
若い頃の彼の音声は、どの音域も非常に力が入っていて、いわゆる「抜け」がなかった。語尾の最後まで綺麗に響かせる。響きを抜く、という行為がなかったのだ。
しかし、「蒼し」以降の彼の歌声にはこの部分の変化が顕著だ。
即ち、言葉数の多さを「抜け」で処理することが多い。語尾まで響きを残さないことで、綺麗にリズムの中に言葉を収める。演歌を歌うときとJPOPを歌うときの「歌い分け」はこの部分で見事だと感じる。
「最後の雨」も前半の軽く響きを抜いた、どちらかと言えば色のない歌声から、後半のサビ、展開部のクライマックスの響きが綺麗に乗ったロングハイトーンボイスへの転換が非常に熟れていると感じた。
「カラオケでよくJPOPの歌を歌いますよ」と話したように、この曲が非常に歌い込まれている、すっかり自分のものとして消化しているという印象を持った。
他の歌手のカバーする「最後の雨」と聴き比べてみると、これらの点が顕著になるのではないかと感じた。
JPOPの言葉の処理を手に入れれば、彼はラップなどにも挑戦できるかもしれない。
今までの殻に拘らず、自分を捨てて挑戦できる人は強いと思った。
演歌に拘らない氷川きよしをもっと観てみたいと思う。批判に立ち向かえるだけの強さを持つ人は進化し続ける。
そう思った。