ジェジュンの自作曲で彼自身の半生を描いたドキュメンタリー映画の主題歌である『We’re』

この曲は、Japanese ver.とKorean ver.があり、両方を聴き比べると、非常に日本語と韓国語の言語の違いによる音質の違いを知ることが出来る。

もともと、彼は東方神起時代から、同じ曲を韓国語と日本語で歌うということが多く、その頃から非常にクリアな癖のない日本語の発音をすることが際立っていた。

日本語の『We’re』と韓国語の『We’re』の最も大きな違いは、歌声の音色にある。

韓国語の『We’re』が非常に透明的でクリアな音色であるのに対し、日本語の『We’re』はややハスキー気味で響きも複雑な色合いを見せている。

この音色の違いはどこから来るのだろうか。

一つの大きな要素としては、言語の違いが挙げられる。

韓国語は、欧米諸国や他のアジア諸国の言語と同じように、子音+母音の組み合わせによって言語が成り立っている。この場合、発音的には、上顎から上の表情筋や上唇を使って、言葉が発音される。即ち、子音の部分のタンギングが鋭角に深く入ってくることによって、クリアな発音がされる。また子音だけで終わる単語や曖昧母音などの存在も、子音のタンギングを明確にしなければ、単語の発音として成り立たないところがあり、無意識のうちにタンギングのエッジが深く入ってくる。

それに対して、日本語の言語というのは、欧米諸国やアジア諸国の言語と全く違った様相を為す。

日本語には、5つの単純母音しかない。

この単純母音は、子音と組み合わさって単語の発音が成立しているかと言えば、あながちそうとも言い切れない。

なぜなら、日本人は日本語を発音するとき、子音+母音の組み合わせで発音をしないからだ。

例えば「わたし」という言葉があるとしよう。

外国語的に考えたとき、「わたし」という言葉は、w+a  t+a sh+i  という組み合わせで成立する。

しかし、私たち日本人が「わたし」という言葉を発音する場合、上記のような発音の仕方をするかと言えば、そうはならない。日本人の感覚の中には、「わ」は「わ」の文字と同時に「わ」の発音が刷り込まれているのであって、決して

w+a の発音ではないのだ。

この感覚が50音全ての文字の発音に言える。

即ち、日本語の発音というのは、あくまでも、その文字の発音であって、決して子音+母音にはならない。

ところが外国人が日本語を歌う場合には、概して、子音+母音 の組み合わせで発音されることが多い。なぜなら外国人にとって、日本語を発音する場合もやはり、母国語と同じような感覚で発音する人が多いからだ。

 

ではジェジュンはその点では、どうだろうか。

彼の日本語はかなり流暢である。いくつかのイントネーションを除けば、彼の日本語はネイディブに近いほど、流暢な日本語を話す。

彼の場合、タンギングがそれほど深く入らない、という特徴がある。

これは日本語に限らず、韓国語でも言える。その為、彼の韓国語は他の人に比べて非常にソフトで凹凸や強弱がそれほど強調されない。その為、他の韓国人歌手に比べて、非常に全体的な音色が滑らかなのである。

しかし韓国語をはじめとする外国語は、その言語の特性から顔の前の部分で発音しやすい言語の作りになっている。そのため、韓国語バージョンは、非常に明瞭な響きの歌声になっていると考えられる。

それに対し、日本語バージョンは、日本語の持つ特性から、決して顔の前の部分では発音されない。

下顎だけで発音することも可能なぐらい、日本語というものは上唇や表情筋を使わないで発音する言語である。即ち、流暢な日本語で歌おうと意識すればするほど、上唇の動きが少なくなり、その分、響きが口の中に篭る、という状態になる。彼の場合、特に日本語の歌を歌うときには、ことばの発音という部分に注意を払う、とのことだから、流暢に歌おうとすればするほど、口の開け方は曖昧になり、響きが篭る、ということになると考えられる。

このように音色の違いというものは、言語の違いがそのまま歌声の音色の違いに現れている、と考えられる点が1つ。

また日本語の歌詞の場合、使われている単語の母音に当たる部分に[u][e][o]という口を窄めて発音する言葉が羅列している。そのため、さらに言葉全体の音色が暗めになる、という状況になる。

それらの事柄が重なって、日本語の歌の場合は、非常に全体に複雑な響きの歌声になっていると言える。

 

しかし、この音色の違い、そのものが歌手ジェジュンの強みになっていることは否めない。

多くの韓国人アーティストが日本語の歌をカバーしているが、彼ほど日本語のニュアンスを言葉の色に出して歌える歌手はいないだろう。

これは彼が発声ポジションを変えることによって彼自身の言葉を借りれば、「綺麗な声」というものを手に入れていく過程の中で、様々な発声ポジションを経験したことで、「声はポジションによって様々な音色を作り出すことが出来る」ということを習得したと言える。

即ち、「声は作り替えることが出来るのだ」という確信が彼の中にあると考えられる。

それゆえ、歌詞の内容や音楽、さらには言語によって、自分の歌声をどのような音色にでもカスタマイズ出来るという自信が彼の中にあり、今回のように二つの言語によって、音色を全く変えることで、それぞれの歌詞の意味合いにあった歌声を使って、その世界観を作り出せる、ということを示した。

 

彼の歌声は「七色の歌声」とか「ヒーリング・ボイス」という形容がされることが多いが、その印象は、彼が日本語の歌を歌うという経験の中で培われたものであって、もし、日本で活動していなければ、おそらく今の彼の歌声は存在していなかっただろう、ということにもなるのである。

 

彼が12年前に韓国に戻ってしまったときには、彼の歌声のポジションは間違いなく日本語のポジションで、そのポジションのままで韓国語の歌を歌っていた。

ところが長く韓国での活動が続く中で、歌声は完全に韓国語のポジションになり、日本語でのポジションで韓国語を歌うというよりは、出しやすいポジションで歌う、というふうに変化したのだと思う。

日本語のポジションと韓国語のポジションの両方を習得している彼は、そのメロディーラインや音階によって、二つのポジションを組み合わせて歌うことで、様々な音色と発声をさらに習得していった。

そうやって彼の歌声は韓国語と日本語の歌声が融合した音色がベースになったと考えられる。

日本語のポジションで習得した歌声は、声帯に負担のない歌声であり、その歌声を使えば使うほど、彼の中では負担のないポジションで自然と歌うように肉体が反応していったと考えられる。

それが現在の歌声であり、その音色は、二つの言語の特性を楽曲によって使い分けているということになる。

 

『We’re』は彼自身が作曲したもので、彼にとっては最も自然体で出せる音域を使ってメロディーラインが作られている。それゆえ、二つの音色を使い分けて歌うことで、それぞれの世界観の違いを際立たせた、と言えるだろう。

 

韓国語バージョンの非常にクリアで明るめの音色と、日本語バージョンの甘く複雑な音色は、そのまま彼の音楽の世界観の多様性を表している。

その多様性を使って、彼が歌手として表現する世界は、多くの日本人歌手に影響を与えることになるだろう。

彼の世界が今後、どのように変化し成長していくのか、楽しみにしている。