たったひとりのアーティスト、たったひとつの曲に出会うことで、人生が変わってしまうことがあります。まさにこの筆者は、たったひとりのアーティストに出会ったことで音楽評論家になりました。音楽には、それだけの力があるのです。歌手の歌声に特化した分析・評論を得意とする音楽評論家、久道りょうが、J-POPのアーティストを毎回取り上げながら、その声、曲、人となり等の魅力についてとことん語る連載です。
今回は日本のヒーリングボイスの代表格である徳永英明を扱います。彼の歌声は唯一無二と言われ、アジアのみならず、欧米諸外国に多くのファンがいます。彼の魅力的な歌声の秘密と人物像について掘り下げていきたいと思います。
大木誠氏との出会い
徳永英明は1961年生まれの61歳。福岡県で生まれ育ち、中学の時に父親の転勤で兵庫県伊丹市に移り住みました。中学生の時、井上陽水の音楽に出会ったことから、自分も音楽の道を志したいと思うようになりました。
その後、専門学校を中退し、19歳で上京しアルバイトなどをしながら作曲活動に励むも、チャンスを掴めない日々が続きます。そんな時、「レコードデビューの話がある。そのために軽井沢で合宿しないか?」という音楽仲間の誘いに乗って東京でのバイト先を辞め、軽井沢へ行くと、そんな話はなく、喫茶店のアルバイト要員だったのです。
仕方なくその喫茶店でアルバイトを続けますが、そこでのちに『Rainy Blue』の作詞をした大木誠と知り合いました。2人は東京に戻ってからも一緒に曲作りを続けますが、大木誠は音楽活動の継続を中断し、徳永英明は1人でオーディション番組「スター誕生」の決戦大会に出場するも、デビューのきっかけを掴むことができませんでした。
その後も彼は諦めずに音楽関係者が多く出入りするという喫茶店でアルバイトをしながら、デモテープを配り続け、1985年第二回「マリンブルー音楽祭」に出場し、見事、グランプリを受賞。1986年『Rainy Blue』でメジャーデビューを果たしました。
デビューしたのは彼が24歳10ヶ月のとき。父親との約束だった「25歳までにデビューできなければ保険の営業マンになる」をギリギリで果たしたのでした。
デビュー曲『Rainy Blue』から次々とヒットを飛ばす
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徳永英明『世界中を癒し続けるヒーリングボイス』(前編)人生を変えるJ-POP[第14回]|青春オンライン (note.com)