最近の宝塚は、退団するとミュージカルの世界に多くの生徒が転身していく。

これは、在籍平均年数が年々短くなっているのと同時に、宝塚の演目が昔のようにレビュー一本ではなく、ミュージカルというものを本格的に扱い始めた結果、その分野に進出することにハードルを感じない生徒が増えた為とも思える。ただ、転身者の多さに比例して、ミュージカルの演目には、歌劇団出身者の名前を見ないものは少なく、その分野での活躍が今後も熾烈な競争を生むであろう予測は十分に出來る。

そんな中、退団したトップスターの中で珍しくミュージカル分野を目指さず、「女優になります」と宣言した紅ゆずるの『アンタッチャブル・ビューティー』を9月17日に大阪松竹座で観劇した。

この日は、初日で2回公演。

私は初日の昼の部を拝見したから、まさに初日中の初日。

記念すべき第1回目の公演を拝見した。

この演目は実は昨年4月に予定されていたのが、コロナ感染者が複数出て中止になり、あらためて今年9月に開催が決定したものだった。17日〜25日までの予定だったが、初日の翌日、関係者にコロナ感染がわかり、結局、今のところ、25日の千秋楽だけが予定されている。

紅ゆずるほどコロナ感染の影響を受けた人も少ないのではないだろうか。

 

2019年に宝塚歌劇団を退団後、松竹エンタテイメントに入ったが、退団後に予定されていた出し物は悉くコロナの影響を受けて中止や延期、また公演期間の縮小などにあっている。

まともに開催出来た長期公演は、昨年の新橋演舞場での熱海五郎一座の『Jazzyなさくらは裏切りのハーモニー』ぐらいで、その後のブロードウェイミュージカル『エニシング・ゴーズ』も東京公演の7日間のみの大阪公演も福岡公演も全日程が中止という憂き目にあっている。

そんな彼女がやっと開催に漕ぎつけた退団後初の首長公演がやはりコロナによって影響を受けたのだから、彼女のみならず、出演者や関係者はどれほど気落ちしているだろうかと想像するのである。

 

宝塚歌劇然り、ミュージカル然り、団体による演目の場合は、どんなに注意を払っても感染者が出る危険性は常に孕んでいる。

この3年というもの、エンタメ界はコロナの為に大きく活動を阻まれている。

そういう中でポテンシャルを保ち活動を続けていくことは、結局、各個人の力に依るもので、メンタルの不調や体調不良を訴える人も少なくない。それぐらい、表現者にとって、表現する場を奪われることほど理不尽と感じることはないのではないだろうか。

このままの状態でいけば、貴重な初日を観た僅かの観客の1人になりそうだが、今回の彼女の公演について感じるままに書いてみた。

 

私が「紅ゆずる」という人を知ったのは、娘にせがまれて何十年ぶりかで宝塚に行った柚希礼音のさよなら公演だった2015年3月の公演を観に行ったことから始まる。

歌劇団始まって以来の逸材、100年に一度の逸材と呼ばれた柚希礼音のさよなら公演とあって、チケットの入手は困難だと感じたが、たまたま友人にファンの人がいて幸運にもチケットを手に入れることが出来た。

その公演で目に止まったのが「紅ゆずる」だった。

柚希礼音の横に並ぶ彼女のオーラは半端なく、どんな群衆の中にいても存在感を放っている。黒髪で凛とした長身の立ち姿は目を惹きつけるものだった。

昔からもう何百人もの宝塚の生徒を見てきてわかるのは、トップに上がっていく人は、どんな群衆の中にいても独特の雰囲気を持つ人である。下級生のその他大勢の中にいても存在感を放つ人間だけがトップへの階段を登っていく。

いわゆる「オーラ」と呼ばれるものだが、この「オーラ」は努力で身につけることが可能だ。

舞台人たるもの、常に人の目を意識し、自分が観られているということを意識して24時間を過ごすことで自分のオーラに磨きをかけることが出来る。

彼女も下級生の頃、その他大勢の役どころでも、自分で芝居と役の設定を考え、一人芝居をしていたという。その努力が実って選出家や上級生には早くから目に止まっていた。在籍16年目にしてトップに上がった彼女は、自分を磨き続ける努力の人でもあったのだ。

宝塚のトップに上り詰めていく人には昔から2パターンがあり、音楽学校時代から常にトップ成績を保つ優等生タイプか、入団も学生時代もビリから数えた方が早いぐらい成績の悪い生徒かのどちらかがトップに上がっていく例が多い。紅ゆずるは後者のタイプだった。

入学試験の特技披露で「短歌」を披露したぐらい型にはまらないタイプの人間だった。

根っからの大阪人気質で、「好きなものはとことん好き」「自分の思ったことはハッキリ言う」

そんな気質を宝塚に入ってからも貫き通した。

既存のタカラジェンヌのイメージを破った人でもある。

確かに彼女の歌も踊りも宝塚時代、トップのレベルだったかといえばクエスチョンだっただろう。しかし、演技力というものに於いては抜群の力を示した人でもある。

『ANOTHER WORLD』からの『うたかたの恋』『霧深きエルベのほとり』への振り幅は、彼女が喜劇からシリアスな悲劇、そして内面の感情を抑えた演技まで出来る役者であることを示している。

この喜劇が演じられて、尚且つシリアスな演技が出来る、ということが「紅ゆずる」の最大の武器でもあると私は感じるのである。

 

今回の『アンタッチャブル・ビューティー』でも、女探偵という役どころから、およそ元タカラジェンヌとは思えない扮装で出て来る場面があるが、その人物になり切る彼女の没頭感は凄まじいものがある。

そして笑いの中、一瞬でシリアスな演技に持っていき観客の涙を誘う演技力。

その場の雰囲気を一気に変えてしまう演技力は彼女が優れた喜劇役者であることを証明している。

 

大阪南といえば、吉本新喜劇、松竹座という2つの巨大喜劇を抱える本場で、元タカラジェンヌの彼女が培ってきたレビューの力ではない分野で勝負するのは非常に大きなプレッシャーと感じる人も多いかもしれない。

しかし、幼少期より吉本新喜劇を観て育った彼女が、新喜劇役者の内場勝則や末成映薫と堂々と張り合って共演する姿や、三田村邦彦などのベテラン勢の中で演技する姿は実に伸び伸びとしているのである。

 

これは昨年の熱海五郎一座を拝見した時にも思ったことだが、彼女は宝塚という場所を出て正解だったと感じるのである。

「紅ゆずる」という人のオリジナリティーは宝塚という枠の中に収まり切るものではなかった。

宝塚の舞台では周囲から浮きがちだった彼女のオリジナル性は、芸能界という大海の中でやっと水を得た魚の如く自由に表現できるのだと感じる。

しっかりとしたベテラン勢に囲まれて何の心配もなく自由に自分を伸び伸びと表現する彼女の姿は、これからも彼女が唯一のコメディエンヌ目指して活躍していける可能性を示唆している。

 

松竹や吉本の新喜劇が発展してきたのは笑いの中に必ずあるシリアスな涙を誘う人情である。

この部分を演じる為にはコメディーとシリアスな演技力の両方を兼ね備えていなければならない。

「紅ゆする」は、そういう点で、既存のタカラジェンヌには珍しい、この双方を兼ね備えた役者だった。

だから、その器の大きさを壊さない為に、演出家の先生達は、彼女に「紅の好きなようにやれ」と言い続けたのである。

素人目から見れば、タカラジェンヌの長年のイメージを損なうような彼女の存在が、実は、宝塚歌劇団の懐の大きさや深さを示すいい例で、生徒の持ち味を壊さない、という宝塚の伝統でもある。

退団後に活躍する生徒が既存のタカラジェンヌのイメージから逸脱しているのは、大地真央然り、黒木瞳然り、天海祐希然りなのである。

 

「紅ゆずる」は、そのオリジナル性に於いて、まだまだ進化し続ける。

そして唯一の存在になるだろう。

歌劇団を退団して3年。

まだ彼女の旅は始まったばかりだ。

これからも彼女ならではの活動で唯一の存在になって欲しい。

長い歴史と多くのタカラジェンヌを輩出した歌劇団の歴史の中で、1人ぐらいコメディエンヌが出てもいいだろう。

そう思った。