強弱の切り替えのインパクトで成立している曲だ。

強弱のフレーズが交互に現れる。そういう楽曲の作りなのか、それとも彼が楽曲を歌うのにそのように表現することにしたのか、それはわからない。

ただこの曲を聴くと、氷川きよしという人の声の長所ともいうべき部分がクローズアップされる。

それは非常に鳴りのいい声帯を持っているということだ。

演歌歌手特有のものと感じていた彼の声の張りが実はそうではなく、彼特有のものだというのも彼と同世代、もしくは彼の年代以下の演歌歌手の発声と聴き比べると、演歌歌手にも様々な歌声があるのだということがわかる。

彼の場合、非常にストレートで張りのある歌声をしている。おそらく喉自体は元々強いのではないかと思う。ピンと張った歌声とハイトーンボイスは、声帯の伸縮がいい状態を現している。

彼の場合、響きに伸びを感じるというよりは、強靭な声帯がよく共鳴しているという感じがする。全く音楽のタイプは違うが、郷ひろみの高音の声帯の張りと似たものを感じさせる。彼もまたハイトーンの鳴りのいい声だが、氷川きよしの場合は、郷ひろみよりも響きに混濁がなく澄んでいる。

「母」はこの声を中心に響きを抜いた無色の声とのコントラストで構成される世界だ。

色で言えば濃淡。濃い色合いの声と無色に近い色合いの歌声。これら2つの声のコンビネーションによって楽曲に強弱が与えられ、音楽が進んでいく。

 

以前の氷川きよしの歌をよく知らないから、なんとも言えないが、「サバイバー」「大丈夫」「確信」「母」と音楽の振り幅が非常に大きい。ロックから演歌、バラードまでを自分の持ち歌としてこなして行く。

演歌のカテゴリーを外した途端、堰を切ったかのように彼の音楽の世界が広がったという印象が拭えない。

 

歌手はどれだけの引き出しを持っているかによって、その表現に幅が出る。

ホームランともいうべき大ヒット曲を持つことは一つの勲章のようなものだが、それがあるがために却ってイメージに捉われ、新しいジャンルに挑戦することが難しくなる時もある。

いつまでも聴衆の記憶の中にイメージが残り、形骸化してもそこから抜け出すことが難しい場合もある。

 

氷川きよしは「きよしのズンドコ節」がミリオンセラーの大ヒット曲になり、演歌界の救世主のようなイメージがあった。デビュー後、実に20年という長い年月、演歌界のトップをひた走ってきた。

その20年の間に彼が自分の中に培ってきた演歌以外の音楽があったからこそ、今、別のジャンルに挑戦することが出来るのだと思う。そして躊躇なく一歩を踏み出せるのも、絶えず音楽と向き合ってきたという自負があるからに違いない。

 

「母」は20年を経て、また新しく「母」から生まれる、生まれ変わる、という意味の曲でもあるというようなニュアンスの発言をどこかのインタビューで読んだような記憶がある。

 

彼の音楽の世界観が、どこまで広がって行くのか非常に興味深い。

何にしろ、現状にふみ留まることをせず、進化し続けている人は魅力的だ。

進化できる人は、それだけ物事の考え方や捉え方が柔軟な証拠でもあると感じる。

 

音楽に最も必要なことは、柔軟性と自由性。

何にも捉われず、自分軸で行動できる人は強い。

 

彼の歌う姿を見て、そう思った。