「海の時間」と名付けられたこの曲は、波の音とピアノが印象的で非常に叙情的な曲だ。
海の壮大さと静けさ。
まるでピアノ曲のような楽曲のスケールの大きさが全編を覆う。
それに合わせて静かに語るように歌は始まる。
音楽は常に流れている。その音の上を滑るように歌は展開されていく。
ジェジュンの低音部と中音部が中心のこの曲は、後半の転調部分からメロディーが一気に甘く切ない旋律を奏で、クライマックスへとエネルギッシュに展開されていく。それに合わせるかのように彼の歌声も絶唱的になっていく。
ファンにとっては待望の彼のアルバムであり、彼自身が最も発売を熱望したのかもしれない。その熱情はこの曲の中でも歌声の随所に感じることが出来る。
が、しかし、私は今回の「愛謡」の彼の歌声にどうしても満足することが出来ない。
こんなことを書くとファンには総スカンを食いそうだが、声の専門家として聴いた場合、昨年来から感じている彼の歌声への懸念をあらためて感じざるを得ないのである。
もちろん、彼の歌声は唯一無二の歌声で、今回のアルバムを聴いて、そんなに違うのかと多くの人は思うだろう。特にファンであるなら、彼が「歌う」「歌える」だけで満足であり(長年歌うことすら出来なかった)、日本では当たり前のように毎年CDが発売され、さらに長年待ち焦がれた韓国でのCDも出すことが出来た現状は、日本活動が再開される以前とは比べ物にならないぐらい画期的なことであり、そういう環境そのものが感謝以外の何者でもない、という気持ちもよく理解できる。
しかし、私は満足出来ない。
なぜなら、歌手ジェジュンの歌声はこんなものではないからだ。私がかつて惹かれた彼の歌声はこんなものではない。
私は、長年、歌の仕事をして来て多くの歌手の歌声を聴いて来た。歌は私を癒すものではなく、仕事の一部でしかなかった。どんなに上手い人の歌を聴いても聴衆の一人として純粋に歌に入っていけない。「声」というものに捉われて、純粋に「歌」を楽しむことが出来ない職業病とも言うべきものだった。
そんな私が彼の歌声だけは、純粋に「歌」として聴くことが出来た。
音色、声の伸び、発声、何をとっても申し分がなかった。何よりも彼の歌声は「音楽」の仕事に疲れた私の心を癒してくれた。
「音楽によって癒される」という誰もが経験する気持ちを初めて私に与えてくれた歌声だったからだ。だから私は彼の歌声に嵌った。
そして、その頃の彼の歌声は、私の音楽仲間にも高評価だった。それぐらい「歌」をやる人間から言わせれば文句のつけようのない歌声だったのだ。
しかし、今、彼の歌声を聴いても、私はかつてのように満たされた気持ちになりにくい。
そう、彼の歌声は変わった。
私がかつて「どこまでもどこまでも伸びて限界を感じない歌声」「ミルクのように甘く濃厚な歌声」「クラシック歌手の発声と同じように歌う」と称した歌声は、今の歌声からどうしても感じることが出来ない。
多くの人は「どこが違うのか?」と感じるだろう。あえて言えば、以前に比べて高音が突き上げるような歌声に変わったと感じるぐらいかもしれない。
しかし、今回、この曲の歌声を聴いて、「ああ、何もかも変わったのだな」と感じた。
高音部だけでなく、中・低音域も彼の歌声は変わったのだとわかった。
そしてそれは日本語や韓国語という言語に関係なく、歌声そのものが変わったのだと知った。彼の歌声が変わった原因をずーっと考えて来たが、今回、この「海の時間」を聴いて、はっきりその原因を知ることが出来た。
それは発声ポジションそのものが変わっているのだということだった。
全ての音域において、彼の発声ポジションは喉に落ちている。それは高音を歌ったときに顕著だ。最近の彼は高音のフレーズの語尾をプツンと勢いで歌いきってします。その歌声の断面は非常に荒い。かつての彼の歌声は、どんなに高音であってもフレーズの語尾が丁寧に最後まで響きが残されていた。それは声の断面が綺麗な響きで整えられていたのだ。しかし、今の彼の高音フレーズの語尾にはそれを感じない。力で押し切る、という歌い方は、響きを混濁させる。それがドラマティックだと言えばそれまでだが、その切り方は、声帯がブレスの力に耐えられなくなって切っている状態で、喉を痛める危険性が大きい。混濁した歌声は、力で声帯をくっつけている状態であり、その摩擦はダメージを与え、ポリーブや結節の原因になりかねない。
東方神起時代の彼の発声には、そのような懸念は全くなかった。しかし、今の発声ポジションは、かつて東方神起として活動していたときに「日本人好みの歌声に変えた」という発声ポジションではなく、それ以前の韓国時代。即ち、韓国でデビュー当初の発声ポジションに戻っていると私は感じる。それは、彼がかつて歌った韓国語の曲とこの曲とを聴き比べたからだ。
私が聴き比べた曲は、2010年10月のドラマ「成均館スキャンダル」のOST「君には別れ、僕には待つということ」と2014年5月のドラマ「トライアングル」のOST「シロド」である。この2曲だけが彼が韓国語でありながら、東方神起時代のボイスポジションで歌っていると思われる曲だからだ。
なぜなら、「君には別れ」の方は、日本活動が打ち切られた直後で彼の歌声は日本で歌っていた歌声のボイスポジションと全く同じまま韓国語を発音しているからだ。日本語の歌の音色がそのままこのOSTの歌声の音色になっている。
また「シロド」は非常に彼の歌声の状態がいい。
ゆったりとしたバラード曲で、彼の歌声は非常に伸びやかでゆっくりとしたメロディーの展開と、ちょうどボイスポジションが鼻腔に来る場所の音域が多用されているメロディーの為に、かつての日本語の歌の発声ポジションと同じ場所で歌われている。
韓国語でありながら、単純母音が多用された歌詞で、伸びやかな発声になっている。また彼の声帯自体がコンディションの良さを感じさせる歌声だ。
これらの曲と今回の曲を聴き比べて、私は彼の発声ポジションがどの声域も全て奥に引っ込んでしまっている、もしくは喉へ落ちてしまっていると強く感じた。
これは、かつてデビューした頃、彼が地声で歌っていたポジションと非常に似通っている。
確かに表現力や言葉の処理はこの数年で非常に向上した。
それはかつての東方神起時代と比べ物にならない。
グループ歌手としてのメインボーカルとソロ歌手とでは、歌に対する「覚悟」が違う。
曲の部分的フレーズを担って歌うのと、最初から最後まで一人で歌い通すのでは、全てが違うのは当たり前だ。だから、そういう意味では、彼の歌手としての評価が高いのは当たり前である。
そして、それほどの高評価であるなら、歌声などいいではないか、今の歌声だって十分魅力的だ、との言い分も十分通用するのだ。
しかし私は声の専門家として、彼の歌声を分析した時、どうしても今の歌声に満足出来ない。
このまま彼が発声ポジションを喉に落とした状態で歌い続けたら、どのような歌声になっていくのか想像ができるからだ。そしてその兆候は、既に出ている。
かつてほどのボリュームや声の伸びを感じない。
かつての彼の歌声は空気の流れに乗って、どこまでもどこまでも伸びていった。
いわゆる専門用語で「歌声を飛ばす」という発声が出来ていた。
しかし、今は彼の歌声は身体に張り付いているのを感じる。
かつてのように身体から歌声が離れない。それはおそらく彼自身が一番わかっていることだと思う。
前に飛ばない歌声を力で押して歌う。だから「なんだか高音が苦しそうに聴こえる」「喉を閉めたように聴こえる」という感想を聴く人に与えるのだ。
彼がかつてのような歌声に戻す方法は、難しいことではない。
発声ポジションを少し手直しすればいいだけだ。
喉に落ちてしまっているポジションを顔の前面に戻せばいいだけのことである。
かつての発声ポジションを彼に思い出させればいい。
今、一番問題なのは、彼自身が感じているポジションと実際のポジションに乖離があることだ。
彼自身がそのことに早く気づけばいい。
気付きさえすれば、彼は自分で必ず修正する。
これが歌手ジェジュンが歌い続ける為の必須条件だと私は思う。
今年も彼は何曲か新曲を出すだろう。歌手としての表現力は申し分ない。その上でかつての歌声を取り戻せば、彼の可能性はどこまでも伸びる。
歌手ジェジュンは、今年が正念場だ。
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