熱海五郎一座の演目「Jazzyなさくらは裏切りのハーモニー」を新橋演舞場で観た。
この演目は昨年上演が決まっていたもので、コロナの為に一年延期され、今年やっと実現したものである。
ここに元タカラジェンヌの紅ゆずるが出演していた。
紅ゆずるにとっても宝塚退団後、数々のスケジュールがコロナで中止に追い込まれ、女優として初めての演目になった。
この舞台で彼女の女優としてのスケールの大きさをあらためて感じることとなった。
紅ゆずるは、宝塚現役時代、喜劇を得意としたスターでもある。
「うたかたの恋」「霧深きエルベのほとり」などに見られるシリアスで切ない演技の一方で、代表作ともいえる「アナザーワールド」では、喜劇の才能を遺憾無く発揮し、彼女以外には作り出せない世界を披露した。
しかし、彼女の頭脳明晰な機転から生まれ出されるアドリブの言葉の数々、臨機応変に繰り広げられるコントは、ともすれば宝塚というイメージの世界からは程遠い演技を生み出し、ある種の客層からは批判の的になりかねないこともしばしばだったことは否めない。
「品がない」「タカラジェンヌらしくない」「スターらしくない」「すみれコードに引っかかる」など、その否定的な意見には常に今まで宝塚のスターというものが築き上げてきたイメージとの乖離を指摘されるものが多かった。
そういう一部の客層の批判の一方で演出陣には非常に受けが良かった。
多くの演出家が彼女の演技力や破天荒な才能を認め、「紅の好きに演じたら良い」というお墨付きの時間を与えられることもしばしばだった。
それは今から思えば、彼女がおよそ宝塚の歴代スターが持ち続けてきたイメージとは程遠い面を持っているということの現れだったかもしれない。
多くの人が抱く宝塚出身の芸能人のイメージは、「優等生」であったり、「上品」「優雅」など美しさと共にある形容詞から抱くものが多いからである。
そういうイメージから言えば、彼女は現役時代から、少し違っていたと言えるかもしれない。
退団後の彼女は、松竹エンタテイメントに所属し、東京にいるにも関わらず、大阪弁を手放そうとはせず、コメンテーターとして頭の回転の良さや、臨機応変な応対、独自の語録を遺憾無く発揮し、臆することなく自分のキャラクターを芸能界という大きな世界の中で発揮しているように見えた。そんな中での彼女自身、待望の女優デビュー作「熱海五郎一座」への出演だった。
一足先に観劇した娘から、「さゆみちゃんは宝塚時代そのものやから」と聞かされて、私の脳裏には、宝塚の舞台の中で突出していた彼女のギャグやある種、力が入りすぎて相手がうまく受け取れずに空回りする熱量のコントなど、過去の記憶が蘇ったのは確かなことである。
前から三列目。実質二列目という(コロナで最前列は空席になっている)いわゆる神席と呼ばれる席で、仕事の関係で来れなくなった娘の代わりに同席した友人と共に「熱海五郎一座」という毎年、非常に好評な喜劇の今年の演目である「Jazzyなさくらは裏切りのハーモニー」の舞台を観劇した。
熱海五郎一座は、三宅裕司、ラサール石井、渡辺正行、小倉久寛、春風亭昇太、東貴博、深澤邦之などの大ベテランを揃えた一座に毎回ゲストが合流するというもので、今年のゲストは紅ゆずる、AKB 48の横山由依の二人だ。
この本格的な喜劇を見て、先ず感じたのが、脚本が非常によく練られたものだということだった。
演劇にはほぼ素人の私でも、台本が非常にしっかりしているというものを感じた。
土台となる台本がしっかりしている中で、繰り広げられるそれぞれのアドリブから繰り出されるコントは、どんなに破天荒なものでもきっちりと台本の骨子の中に収まるものなのだということを感じずにはいられなかった。
ベテラン俳優の計算され尽くした演技は、非常に素晴らしく、笑いの連続で、あれほど笑った舞台も記憶にないと思えるほど、楽しいものだった。
その中で、感じたのは、紅ゆずるの女優としてのスケールだった。
彼女は宝塚の現役時代に披露していたキャラクターそのものだった。
カッコよく、そして大阪人としてのキャラを炸裂させる。
今回は突然、「岸和田のおっさん」が登場した。
美人で品が良く、華麗なキャラクターが突然、岸和田のおっさんに変身するのである。
そのギャップが見事に描かれ、その変身ぶりは、宝塚現役時代と何ら変わることがなかった。
娘が言った「宝塚の時とおんなじだから」
まさにその通りだった。
しかし、その変身ぶりは、何の違和感もなく、芝居の中に治まっていた。
宝塚では突出しがちだった彼女の勇しくエネルギーに溢れすぎるコントは、同じ波長なのに熱海五郎一座の中では一切突出しないのだ。彼女のアドリブから生み出されるコメントの数々が、宙に浮くことなく相手方に受け取られ、間髪を入れずに言葉が返ってくる。
それを受けて、またさらに彼女が発する言葉も相手に受け止められ、かわされたり、受け流されたり、一切しらける事なく、浮き上がることもなく、芝居はどんどん進行して行く。
見事だと思った。
これが一流の喜劇役者達の演技力なのだと思った。
懐の深さ、広さ、ベテランの器の中で、彼女のアドリブは、見事に処理されて行く。
熱海五郎一座が毎年5万人の観客を動員し、一座そのもののファンが多い、というのは、十分納得出来るものだった。
そしてあらためて感じたのは、紅ゆずるの役者としてのスケールである。
彼女は、宝塚という枠に収まりきる役者ではなかったのだということがわかった。
彼女のスケールの大きさが、宝塚というイメージ、枠に合わなかったのだ。
それは100年という歴史の中で、歴代のスター達が築き上げてきたイメージの枠外に彼女のキャラがあったということの現れだと思った。
それを知っていたから、演出家達は、彼女を評価し、自由に演技をさせたのだ。
彼女のスケールを潰さないために、「紅はその場に立っていればいい」と言い、「10分やるから好きなこと喋れ」と言い、「紅の好きなようにやれ」と言ったのだ。
彼女が現役時代に培った華やかで人を惹きつけるオーラはそのまま。
その上で喜劇役者として演技する姿は、芸能界という広い世界で、何の規制もなく解き放たれ、自由に泳ぎ回る魚のように伸び伸びとしていた。
紅ゆずるという役者は、舞台がよく似合う。
紅ゆずるは、きっと今までにない宝塚出身の女優になるだろう。
そう確信する舞台だった。
彼女の有言実行、自分に引き寄せて行く力、自己肯定感。
そういう力強さが一層魅力的なキャラとなって、大きく花開く。
今までにない元タカラジェンヌのイメージを作り上げる。
そう確信した1日だった。