5日夜に配信されたオンラインコンサートは、配信によるライブの限界点を見せたように感じた。

正直なところ、彼は楽しかったのだろうか、と思った。

 

今年は、コロナの影響で音楽業界全体でほぼライブ活動が停止されている。

多くの歌手がほぼ仕事がない状態に追い込まれた。

ライブツアーは尽く中止され、音楽活動の主軸を失った形になった。

その中で活路として歌手達が取り組んだのが、ライブ配信によるコンサートだ。

ホールを借り切り、無観客でコンサートを行い、ライブ配信する。

この方法でしか、ライブ活動を続ける方法が今の段階ではなかった。

私もいくつか拝見した。

リトグリ、三浦大知、松田聖子、氷川きよし、また城田優、山崎育三郎、尾上松也によるIMY歌謡祭など。

それらは、それなりに楽しめた。

リトグリは、Twitterを駆使して、観客との会話を楽しんだ。

三浦大知はホールではなく、野外にステージを組み、配信だからこそ出来る自然と音楽との一体感の世界をうまく取り込んだ。

IMY歌謡祭は、ホールからのライブ中継であり、観客もいて通常のコンサートの形式だった。

松田聖子、氷川きよしは、通常のライブ形式を取った。

それらはどれも、観客がいなくても(IMYは観客あり)それなりに彼ら自身が楽しんでいる様子が見えた。

三浦大知はソロだが、ダンサーが一緒だった。

リトグリはグループ、IMYはもちろん複数だ。

いわゆる、全くの一人は、松田聖子、氷川きよしのライブだけだったが、その時には感じなかった一抹の虚しさのようなものを今回は感じた。それは、松田聖子や氷川きよしの場合は、ある程度、編集された形のライブ(衣装替えなどカメラアングルの切り替えがあった)のに対し、今回の彼のライブは、ワンテイクで撮られたものだったからかもしれない。

私には、彼自身がそれほど楽しんで歌っているようには見えなかった。

 

確かに工夫はしてあった。

観客のあげるコメントに反応してMCに反映させた。

観客の拍手、歓声などを流して、臨場感を伝えようとはしていた。

しかし、それらはかえって、本来いるべき観客がいないことを感じさせるものになったように思う。

そういう音声が必要だったのか、とも感じさせた。

松田聖子や氷川きよしとは違って、彼は通常のライブ形式をそのままオンエアさせる形を取っていた。

 

ホールの入り口から客席の横の通路を歩いて、ステージに上がる。

そのまま歌い、ライブ観客に語りかけるようにMCを行なった。

また、別に小部屋のステージを用意し、そこでも数曲歌った。

そこへの移動もカメラの切り替えはなかった。

衣装替えもカメラの前で行い、いつものコンサートのあり方をそのまま踏襲した。

それは、彼がオンラインであっても、通常のコンサートとは何も変わらないのだ、という普遍的なものを現したかったのかもしれない。通常の形を取ることで、オンラインコンサートが、特別なものではないことを示したかったのかもしれない。

しかし、彼がダンスナンバーを歌いパフォーマンスする様子には、どこか虚しさが漂ったのは否めない。

いつもなら、多くの観客の中で、最高の盛り上がりを見せるそれらの曲も、ダンサーもなく彼一人のステージでは、今一つ、彼の歌に覇気を感じられなかったのは当たり前の現象なのかもしれないと思った。

 

彼の様子は、歌手は観客がいて成り立つ仕事であることをあらためて感じさせた。

歌手は、観客からエネルギーを貰い、それをパフォーマンスの力に変えていく。

さらに歌手からのエネルギーが観客に伝わり、盛り上がっていく。

このエネルギーの循環があってこそ、ライブは成立するものだということを痛切に感じさせるものになった。

どんなに観客を自分の中に想定し、ライブの感覚を思い出しながら歌ったとしても、そこには限界がある。

エネルギーの循環のない世界で、ソロで歌い切る孤独さは、無観客ライブのある意味、限界を感じさせるものだった。

 

彼はこのようなオンラインコンサートを初めて行なったが、これが最初で最後になるように、という願いを込めて

「THE LAST ON CERT」というタイトルをつけた。

そこには、もう2度とこのような形のコンサートはしたくない、という彼の意思のようなものを感じさせる。

 

 

コロナの感染は止まる気配を見せない。

来年、多くのライブが予定されているが、今のような状況では、開催は非常に難しい。

 

観客が歓声をあげ、こぶしを振りかざし、足踏みをし、ジャンプをして楽しむライブ。

会場全体がうねりのようになって躍動するライブが再び開催出来るようになるのは、いつのことだろう。

 

配信後の「皆さん、楽しめましたか?僕は少し寂しかった」との彼のコメントに、オンラインコンサートの限界を感じた。