松田聖子の40th Anniversary Concertを大阪城ホールで観た。
一言で言えば、文句なく楽しかった。
彼女のコンサートは4年前初めて拝見してから3度目だが、今までの中で一番歌声が充実していて、躍動感に溢れていた。
私も松田聖子世代。
次々に繰り広げられる耳慣れたヒット曲の数々は、彼女が突出したヒットメーカーであったことを思い起こさせる。
山口百恵の引退と入れ替わるように出てきたアイドルを多くの人が受け入れた証でもある。
百恵とは全く違うタイプの彼女のパーソナルもパフォーマンスも当時から一点の曇りもなく、気分のいいぐらいの振り幅で存在し、それが彼女の最大の魅力でもある。
59歳になってもミニスカートのブリブリ衣装を着て、ステージを走り回れるのは彼女以外にいない。
他の人間なら、少し考えてみればイタイと思われるものでも、彼女なら何の違和感もない。
ステージの彼女は松田聖子そのものであり、その姿はその曲がヒットした当時を思い起こさせるものであって、そこに時間の流れを何も感じさせないのは、さすがとしか言いようがない。
松田聖子は永遠のアイドルなのだ。
彼女がいる限り、私達は歳を取らない。
いつまでも若く生き生きとして、人生のパフォーマンスを続けることが出来る。
まるでリアルリカちゃん人形のように飛び跳ね、走り回る彼女を見て、このパフォーマンスを続ける裏側でどれほどの努力をしてきたのだろうと思った。
確かに歌声は往年のキーポジションよりも下がった。
しかし、今回の歌声には彼女特有の張りが戻り、独特の透明感とハスキーさの艶が戻った。
彼女特有の日本語のタンギング。
滑舌の清涼感は彼女独自のものである。この日本語の処理能力と滑舌の特徴は他の追随を許さず、松田聖子が松田聖子である証とも言える。
私は彼女の歌声の透明感と滑舌の清涼感に惚れているのである。
この部分に於いては、おそらく彼女がどれほどの年齢を重ねても変わらない。
即ち彼女の歌声は歳を取らないのである。
声帯は年齢を重ねるに従い、声帯の粘膜そのものとそれを支える筋肉の老化が起きる。
即ち、伸縮の反応が遅くなり、声帯そのものも分厚くなる。
それゆえ、出される歌声の透明性は少なくなり、女性の場合、特有の響きの濃色が現れてくる。さらにそれに従って滑舌の悪さも現れる。その顕著な例としては、松任谷由美が挙げられる。彼女の歌声は若い頃の透明性が失われ、近年は非常に濃色になり、滑舌も歯切れが悪くなっている。
これは、何も彼女だけに限らない。誰しもが起きる現象であり、だからこそ、肉体を使った歌声であると言えるのである。
しかし、この法則は松田聖子には見当たらない。
彼女の場合、確かにキーポジションは全体的に下がった。
若い頃のハスキーで伸びやかな高音は影を潜めている。しかし、もう一つの特徴である透明性と清涼感は失われることなく維持されたままだ。
加齢による独特の歌声の粘りはどこにも見られない。
これが彼女の歌声が何も変わらない、と感じる大きな要因と思われる。
そしてキーポジションが下がった分、滑舌の清涼感や歌声の透明性は増した。
綺麗な響きのアルトの歌声は非常に魅力的であると言えるだろう。
この日、披露した「瑠璃色の地球」は彼女の歌声の持ち味を生かし切った印象的な歌声だった。
そして実際にコンサートに行った人が必ず感じるのは、彼女の謙虚さであろう。
ファンに対する心遣い。
丁寧な物言い。
そして、何よりも深々とお辞儀をして、何度も「ありがとうございます」と頭を下げる彼女の姿である。
一世を風靡したアイドルが、誰よりもファンを大切にし、常に謙虚でファンの期待を裏切らないパフォーマンスを続ける。
多くの同性に好かれる要因はここにある。
彼女は永遠のアイドルなのだ。
どんなに年齢を重ねても、いつまでも若さを保ち続ける。
その裏側にどれほどの努力があるのかは想像を絶するのに、そんなものはおくびにも出さずに、ケロッとした姿で毎年、ステージに立ち続ける。
輝き続ける永遠のアイドルなのだ。
この日、アコースティックコーナーで歌詞を「間違えちゃった!」と悔しそうに舌打ちし、笑顔でもう一度やり直した彼女に、自分にミスを許さない厳しさを感じさせた。
どんな曲をリクエストされても瞬時に歌える能力は、40年、彼女が私生活でいろいろ言われたとしても、アーティストとしては弛まず努力し続けている証拠でもある。
松田聖子は永遠のアイドルである。
私達世代の希望の星なのだ。