先週末に開催されたジェジュンのバースデイファンミーティングで彼の生歌を久しぶりに聴いた。
このイベントは1月にリアル開催が予定されていたものが、コロナの影響で彼が来日出来ない状況の中、4ヶ月遅れでオンライン開催された。
本人が肋骨骨折という状況下での歌だった。その為、午後の部では歌い出しやショートフレーズ以外のサビなどの部分では、音源演奏になるという構成だったのは致し方ないのかもしれない。
歌う人間にとって、肋骨骨折という状況は致命的負傷になる。
歌がブレスを使う限り、呼吸器官をガードしている肋骨の負傷というのは、ブレスに大きなダメージを与える。
普通の呼吸をする場合ですら、肋骨は呼吸器の動きに連動している。その動きは僅かであるが、負傷すれば、その僅かな動きですら、痛みを伴うものになる。
それほど、密接な繋がりを持つ呼吸器と肋骨の関係の中で、肋骨そのものに大きな負荷をかける運動が「歌を歌う」という行為になる。
特にジェジュンの場合、高音部は大きく身体を使って、ブレスを体内から頭頂部に放り上げて歌うという発声フォームを取る歌手である。
そういう発声フォームを取る彼にとっては、身体のどの場所よりも呼吸器と肋骨は大切な器官になる。その場所に骨折というダメージを抱えながら歌うということは、ファンミのように数曲を歌わなければならない状況では、致命的な負傷と言えるのだ。
その負傷を彼は、昼の部は、リアルサウンドと音源を使って乗り切り、夜の部では、ほぼリアルサウンドで乗り切った。
そこに彼の歌に対する拘りが見える。
なぜなら、これはコンサートではなくファンミである。例えば、極端な話、一曲歌うだけでも構わないのである。しかし、彼はそういう中で、出来る限りの歌を届けた。
確かにどのようなアクシデントがあったにせよ、ファンミ前に肋骨を骨折するというのは、管理不足と言われても仕方ない。
人間は起きてしまったことよりも、起きた後、どういう対応をするかという部分にその人の人間性が現れる。その側面から考えてみれば、彼は「どうしても歌いたかった」ということになるのだろう。
ジェジュンという人は、コンサートもイベントもグッズも、どんな些細なものであっても、必ずセルフプロデュースをするというスタンスが見えるアーティストである。そういう面から考えると、このファンミでの歌も彼自身の「何が何でも歌う」という意思が強く反映されているということが伺える。それは、自身への戒めも含めて、どんな困難な状況であっても歌手である限り、「歌わなければならない」という強い意思が見える。
それが昼の部では、サビの部分をリアルサウンドで歌うことを自重し、夜の部に歌の体力、呼吸の体力を温存し、夜の部では、ほぼどの曲もリアルサウンドで乗り切ったスタンスに現れているように思えた。
今回の骨折という状況に一番不満を感じているのは、誰であろう彼自身であり、完璧主義である彼が、一番彼自身の状況を許せない、ということになるのだろう。
それは、映画の主題歌でもある新曲「We’re」を今回歌わなかったことに如実に現れている。
「どうしてもどうしても一番いい調子でこの曲を、初めてのライブなのになんかもっといい調子で皆さんに生歌で聴かせたいな、という気持ちが余りにも強くて今日は音源とMVを見させて頂く事にした」
そう言って、新曲を歌わなかった彼に、歌手としてのプライドを見たような気がした。
コロナ禍の中、長期に日本活動が出来ず、さらに今回の骨折という状況は、必ず、彼の中に深く足跡を残し、今後のアーティストとしての成長の糧になったに違いない。
自身の曲で一つ上のステージに上がる彼の歌をリアルに聴いてみたい、と思った。