たったひとりのアーティスト、たったひとつの曲に出会うことで、人生が変わってしまうことがあります。まさにこの筆者は、たったひとりのアーティストに出会ったことで音楽評論家になりました。音楽には、それだけの力があるのです。歌手の歌声に特化した分析・評論を得意とする音楽評論家、久道りょうが、J-POPのアーティストを毎回取り上げながら、その声、曲、人となり等の魅力についてとことん語る連載です。

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今年最後に取り上げるアーティストは、年内で無期限の活動休止を宣言した氷川きよしさんです。

氷川さんの演歌歌手としての歩みから、この数年の変貌までを音楽的観点や彼の発言などから紐解き、活動休止後の期待値までを書いていきたいと思います。なお、氷川さんは最近、ご自分のことを「氷川きよしではなくkiinaだと思っている」と発言されていますが、記事では今までのご活躍から便宜上、彼という3人称の呼称を使わせて頂きます。

演歌歌手「氷川きよし」が誕生するまで

氷川きよしは、1977年生まれの45歳です。福岡市の出身で高校を卒業後、本格的に歌手を目指して上京し、2000年2月、22歳のときに『箱根八里の半次郎』で演歌歌手としてデビューしました。

この曲は新人歌手としては異例の170万枚を売り上げ、同年、紅白歌合戦に初出場しています。(その後、今年度出場まで連続23回出場)

2002年に発売した3枚目のシングル『きよしのズンドコ節』の大ヒットを経て、広く多くの人に演歌歌手の若き担い手として知られるようになりました。

2006年3月に発売された『一剣』で第48回日本レコード大賞を受賞。この受賞の他に『きよしのソーラン節』などで9回の有線大賞や、ゴールドディスク大賞(ベスト・演歌/歌謡曲・アーティスト)を多数受賞し、「演歌界のプリンス」と呼ばれる存在になりました。

彼が演歌に出会ったのは、高校生のときです。それまでの彼は、多くの同年代の若者と同じように、ポップスやロックを好んで聴き、自分でも歌う少年でした。

ですが、高校生になり、芸能クラブに入部。顧問の先生がおじいちゃん先生で「演歌を歌ってくれんかね?」と言われたことがきっかけになり、演歌を歌うようになったと言います。(https://news.line.me/detail/oa-shujoprime/e91858f762ea

その後、彼は本格的に歌手を目指し、高校3年生の時にNHKの『BS歌謡塾 あなたが一番』にて準優勝。審査員だった作曲家の水森英夫氏から名刺を渡され、歌手になることを決意、上京しました。

アルバイトなどをしながら、演歌歌手としての修行を水森氏のもとで積み、4年後の22歳のときにデビューを果たしました。

このようにデビューまで4年という歳月を費やした彼の道のりは決して順風満帆とはいかなかったのです。それは、当時、演歌というジャンルには若手男性歌手がおらず、「若手男性演歌歌手は売れない」というジンクスが業界内にあったからと言われています。

当時、彼を引き受けた長良プロダクションの会長長良じゅん氏は、彼がデビューするまでの1年間、地方のCDショップなどで彼のキャンペーンを行い、名前と顔を覚えてもらい、デビューと同時に一挙に売り出す、という戦略を立てました。

その甲斐あって、彼はデビュー曲『箱根八里の半次郎』で大ヒットを飛ばすことになったのです。また、当時、珍しかった若手男性演歌歌手としての彼の成功が、その後に続く多くの若手男性演歌歌手を生むことになりました。

このように「氷川きよし」といえば、誰もが知っている「演歌界の貴公子(プリンス)」と呼ばれ、演歌界を牽引する存在になっていったのです。

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演歌の定義をくつがえし、独特の世界を築く

 

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氷川きよし『ありのままの自分を取り戻しKiinaとして歌い続ける』(前編)人生を変えるJ-POP[第17回]|青春オンライン (note.com)