三浦春馬さんの歌を初めて聞いたのは、昨年のFNS歌謡祭だった。
本当に失礼ながら、私は彼がミュージカルに出ていることも知らなければ、歌を歌えることすら知らなかった。
だから彼が女装して歌い踊る姿は驚きだった。
さらに衝撃的だったのは、彼がソロ歌手として正式にCDを出し、レベルの高いダンスと歌を披露したことだった。
「三浦春馬って歌も歌えるの?」
これが正直な感想だった。
それぐらい彼の歌は俳優がちょっと思いつきで歌った、というレベルを大きく超えていたからだ。
彼の発声はしっかりトレーニングを受けたものだと感じたし、非常にレベルが高かった。
ミュージカルに出演する人間の誰もがソロ歌手が出来るか、と言えばまた別問題だ。
ミュージカル歌手は、演技の要素が大部分を占める歌を歌う。
そこには俳優としての演技力を伴った歌唱力が必要とされ、セリフの延長線上に歌がある。
だから歌が得意な俳優は、ミュージカルに出演することは可能だ。
しかし、ソロ歌手というものは全くそれとは異なる。
そこには演技力は必要としない。
あくまでも素の自分で勝負しなければならない。
他の誰でもない、歌手誰々として歌うということになる。
そして一曲を歌い切るだけの技量を求められる。
芝居の流れの中での曲は、あくまでもその人物の心情や事情が観客に伝わった中での歌だ。
そこに至るまでに観客は、その人物の心情を理解し、同情し、感激をして、歌を聴く。
即ち、「歌を聴く」という体勢が出来上がった中で歌うのだ。
しかし、ソロ歌手が歌う場合は全く違う。
何も前後に脈絡はない。
ただその一曲だけを表現する。
たった数分間のパフォーマンスの中で、観客を引きつけ、聞く気にさせ、感動を与えなければならない。
そこになんの事情もなんの同情もない。
歌だけで、観客を引きつけられるか、感動させられるかどうかが勝負なのだ。
そのハードルを超えれるものだけが、ソロ歌手として通用する。
三浦春馬の歌は、そのハードルを高く見事に超え、さらに歌手としての才能と可能性を想像させるにあまりあるほどだった。
だから意外であり、衝撃的だったのだ。
子役の時から顔なじみの「春馬君」がいつの間にか、これほど立派なアーティストになっていたとは想像もつかなかった。
年末の音楽番組で、城田優とジェジュンと3人で、「いつかこの3人で何か出来たらいい」というような主旨のハッシュタグが城田優のインスタに書かれているのと同時に3人の笑顔のショットが、未来への大きな期待感を呼び寄せた。
それぐらい、可能性に溢れる存在だった。
だから突然の死は、未だに私も受け入れられない。
あれだけの可能性と才能を持った人が、もし、生きていたなら、どれほどの活躍をしただろうかと思えば、残念、という簡単な言葉で言い表すことは余りにも軽率な表現のようで、言葉がない。
「死んだ人は忘れられることで二度死ぬ」
この言葉をそのまま三浦春馬さんのファンに贈りたい。
彼を覚えている限り、彼はあなたの心の中で生き続ける。
彼の笑顔、彼の歌声、話し声、彼の踊る姿。
日常生活のひょんな場面でふと彼を思い出す。
それだけで彼は生き続けられる。
忘れないように、一生懸命、覚えておこう、と思わなくても。
ふとした日常の瞬間に彼の笑顔を思い出すだけで、彼は生き続けられるのだ.
私は彼の笑顔も歌声も忘れない。
パク・ヨンハのファンは、没後10年になる今年も、いつものように彼のイベントを行なっている。
少なくとも彼女達の中で、彼は10年経っても生き続けているのだ。
「思い出す限り、人は永久に死なない」
いつまでも彼のことを覚えていて下さい。
そうすることで、彼はあなたの胸の中で生き続けられる。
※
城田優さんがインスタを更新し、長文のメッセージを掲載しました。
涙が出ました。
「春馬の思いを受け継いで生きていく」と書いてありました。
残されたものに出来る事は、「頑張って生きていく事」だけです。
ジェジュンが兄のように慕ったパク・ヨンハが亡くなった後、
「僕は死なない。どんなに辛いことがあっても頑張って生きていくとヒョンと約束したから」と日本語で呟いた言葉がいつまでも心に残っています。
彼は弟のように可愛がったSHINeeのジョンヒョンと妹のように可愛がったKARAのハナの二人も亡くしました。
それでも「頑張って生きていくこと」だけが、残されたものに出来る唯一のことだと知っているのだと思います。
私も三浦春馬という才能ある若者がいたことを忘れません。
新曲のレビューも書かせて頂きたいと思います。
彼の思いの詰まった歌です。
大切に聴かせて頂きたいと思います。