歌声は、一人一人異なるものである。
誰一人に同じ歌声を持つ人はいない。だからこそVocalReviewを書くと、その歌手の持ち味を十分に検証することができる。
えてして歌を聴く時、聴衆は二手に分かれる。
一つは歌詞の意味を感じ取りながら楽曲を聴くタイプ。
もう一つは歌詞よりも歌声や音楽に耳を捕われるタイプだ。
歌は歌詞と曲があってこそ成り立つ世界でもあるが、どちらかにより強いメッセージ性を持つものと両方がちょうどのバランスのものとに分かれるだろう。
斉藤和義の「歌うたいのバラッド」は、そのタイトルにもあるとおり、歌詞の内容がどちらかと言えば重要なメッセージを持つ曲かもしれない。
とつとつと語るように歌う曲の始まりは、「歌手」というものがどういうものであるのか、「歌」が歌手にとってどういうものであるのかということを語るようなメロディーで聴衆に言い聞かせる。
そんな始まりの曲には後半の音楽だけのエネルギッシュな楽曲の欠片も感じることは出来ない。
斉藤和義は、この曲を聴衆と自分に言い含めるように歌い始める。とつとつと始まった音楽は少しずつリズムを刻み始め前へ前へと歩き始める。
彼の少し鼻にかかった歌声が、中音域から高音域になるに従い、扁平的な音の広がりを持った響きの歌声に変わる。歌い上げてくるサビの歌声として力強く響く。
彼の歌声は、三色が使われている。
少し甘く太めな響きの安定した低音域。直線的な響きを持つ中音域。そして高音域になると一気に鼻に抜こうとする発声による鼻にかかった響きの歌声になる。それが抜けきらない為に全体的な鼻にかかった扁平的な響きの歌声という印象になる。
しかしその歌声が後半のこの楽曲の力強さにマッチしていると言えるのかもしれない。
これが綺麗に抜けきった高音部であるなら、ここまで強いメッセージを醸し出すことは出来なかっただろう。
誰一人、同じ歌声を持つ人間はいない。
それが声紋と言われる所以だ。
そして声帯の形、骨格、歯並び、発声の仕方…
様々な要因によって歌声は成り立っている。
それを使い分けるのが歌うたいなのだ。
斉藤和義が歌う「歌うたいのバラッド」は、そんな歌うたいをそのまま現している。
歌うたいなら誰もが一度は歌ってみたいと思う。
だからこそ、今でも多くの歌手がカバーする。
斉藤和義は、歌うたいそのものなのだ。