この記事を書くにあたり、最初に書かせて頂きたいのは、ファン視点ではなく、評論家視点として書かせて頂くということ。
ファン時代、日本不在の8年という間、ずっとファン視点でブログ記事を書いてきた。彼がグループ分裂を経て、長い間、満足に歌えなかった時期、グループ活動に拘り、ソロ活動を行わなかった時期、メンバーに対する思いなど、1人のファンとしてずっと見てきたつもりだ。その視点から多くの記事を書いてきた。
ファンブログを辞めた後、やはり「文章を書く」ということを続けたくて、音楽レビューを専門に書き始めた。その間、ファンとしての記事を一切書かなかった。多くの日本の歌手の積極的に聴き、レビューを書いてきた。
レビュー記事というものは彼以外のものを書いた経験がなかったので、果たして、他の歌手のレビューが書けるのか、又、それが一般社会の中で受け入れられるのかもわからず、約1000記事を書き続けた1年半だったと言える。
そうやって書き続けた結果、コロナ禍の中、音楽評論家になった。
その間、彼は韓国にほぼ戻ったきりだった。
だから今回、私は音楽評論家になって初めて彼の生歌を聴いたということになる。
私は多くの歌手のレビューを書くが、出来る限り、生歌を聴きに行くことにしている。なぜなら、どんなにCDを聴き込んでも、生の歌には敵わないからだ。録音機器の発達している現代に於いては、歌声をどのようにでも加工することは出来る。即ち、音源というものでその歌手の本来の力量というものを測るのは、非常に難しい時代になったと言えるのである。
だから歌手の本当の実力を知るのには、生のコンサートに行くのが一番いい。
ファンでもない限り、私達評論家は、歌手の動向や発言を詳しく知る立場にない。その為、生のコンサートに行き、歌手が話すこと、会場の雰囲気、そしてファンのスタンスなどを直接見ることで、その歌手の可能性や期待値を図ることになる。
この2年、私はそういう視点から多くの歌手のコンサートに参加してきた。だから、彼のコンサートに参加して、自分がどの視点でコンサートを観ることになるのか、ということを私自身、その場に立って知りたかったのだ。
以前のようにファン視点で観れるのか、それとも音楽評論家視点なのか。
それはその場に実際に立ってみて経験してみないとわからない、と思った。
そして、経験した結果、やはり評論家としての視点でコンサートを観ている自分に気がついた。
だから、記事もそういう視点でしか書けない、ということを前置きとしてお伝えしたい。
そして、元ファンだからこそ、彼の才能にリスペクトしているからこそ、あえて厳しい記事になるということも事前にお伝えしておきたい。
元ファンであり、彼の今までの軌跡を知っている上で、現在の日本の音楽業界の厳しさというものを踏まえて、一つの彼への提言として記事を書かせて頂く。
この記事が彼自身や、彼を支える良心的なファンの方への提言になることを願い、彼の成功を期待し、願っている1人の評論家が書いたものとして認識して頂けたら幸いである。
松島耒仁子(音楽評論家)
【J-JUN THE THURSDAY PARTYを拝見して】
今回のイベントは2部形式を取られており、内容が異なるものだった。
1部は、映画『ジェジュン・オン・ザ・ロード』の映像を観ながら、その内容に関する古家氏の質問に彼が答えるという内容のもの。当然、歌は映画に関連するものであり、生のオーケストラの伴奏による歌という贅沢な形式が取られていた。
2部は、完全にファンミーティングの形式によるもの。質問も彼の個人的な日常生活や嗜好に関するものなどで、ファンにとっては楽しい時間になる形式が取られていた。
歌は、1部では以下の4曲。
・for you(高橋真梨子)
・Heaven
・Rain,Tomorrow
・We’re(Korean ver.)
2部では以下の9曲。
・愛してる(中島美嘉)
・Sign
・Defiance
・六等星
・化粧
・Just Another Girl
・Good Morning Night
・We’re(Japanese ver.)
こんなことを書けば、又、ファンの人達から、非難轟々なのかもしれないが、
正直なところ、一部の第一声を聴き始めて、感じたのは、
「えらく頑張って歌っているなぁ」だった。
最初のフレーズ「涙を拭いて」の出だしから、最後のフレーズまで、どのフレーズにも非常に力みが感じられ、よく言えば、一生懸命歌っている、悪く言えば、力んで歌っている、という印象を持った。
この印象は、この日のどの曲にも当てはまる。
力で押して歌っている、という印象なのだ。
グループ時代、彼の一番の良さは、歌い出しの上手さだった。
イントロからの自然な音楽の流れ。その流れを阻害することなく、自然と声を発して歌う。
この歌い出しの上手さが抜群だったのだ。
「涙をふいて あなたの指で
気付いたの はじめて
あの頃の私 今日までの日々を
見ててくれたのは あなた」
この出だしを彼はアルバムではスーッと入ってくる。
イントロの音の流れに同化して歌い始める。
この歌い出しが彼は抜群に上手いのである。
しかし、この日の彼の歌は、出だしから力みが感じられ、ガンガン歌う、という感じなのだ。
そして緊張で支えが上にはあがってしまい、ブレスが深く入らない。浅いブレスは息が十分に回らない。
ブレスの流れに乗せて歌うことで綺麗に響きが共鳴する、ということもなかった。
そういうものよりも、声をしっかり出す、ということに意識の中心が傾いているように感じた。
韓国から戻ってきたばかりだ。
長いドラマ撮影で歌えていない。
隔離期間もあり、練習時間が満足に取れていない。
長くコンサートが出来ていない…etc.etc.
ファン視点でなら、そう言いたいところだろう。
しかし、彼はプロである。
プロの歌手であり、歌手活動を行う為に、日本活動を再開させたのだ。
だったらそういう言い訳は一切出来ない。
日本の歌手も多くの事情を抱えている。日本の歌手だからこその事情もある。
そういうものを抱えて誰もが活動する。それが音楽業界の常である。
この日の彼の歌声は、非常に力みが見え、明らかに力で押す、という歌い方をしていた。
かつての彼の歌の良い点である、伸びやかな高音や伸びやかな発声、息の流れに乗せて歌う歌い方は影を潜め、ただ、一生懸命に声を前へ飛ばそうと奮闘努力している、という印象を持った。
身体を前へ折り曲げて歌うのは、それだけ声が前へ飛ばないからであり、腹筋、背筋の力が明らかに落ちている為だ。
彼特有のフロントボイス(歌声を顔の前面に持ってくる手法)で歌うには、腹筋、背筋のインナーマッスルの力が必要になる。この筋肉は、運動では鍛えられない。何によって鍛えられるかと言えば、それは発声練習のみ。いわゆるボイトレをしない限り、絶対にこの筋肉は鍛えられることがない。
歌手は、ただ歌えば良いのではない。
歌うための身体を作る必要がある。
それは筋トレをしても作れるものではなく、「歌う」という行為に於いてのみ、作ることが出来る。
だから歌手は、ツアーやアルバム制作などがない限りは、自分でその行為を行わなければならない、即ち、ボイストレーニングをするということ。
多くの運動選手が、基礎体力を養う為に筋トレをしたり、ランニングをしたりするのと同じように、歌手にとっての既存の運動はボイストレーニングをするということ。
これが出来ていない歌手は、土台がしっかり出来ていない。その為に、体力がなく、良い歌を歌うことは出来ない。
日本の歌手達は、このボイストレーニングという基礎練習を誰も非常に熱心に行う。そうでなければ、長く歌い続けることは出来ないからだ。
彼の歌を聴いて、明らかにこの基礎体力の部分の不足を感じた。
現代の日本の音楽業界には2つの大きな傾向がある。
1つは、アイドル文化と呼ばれるもの。即ち、AKBや乃木坂などに代表されるアイドルグループ、又、ジャニーズの各グループのような団体によるボーカルパフォーマンスである。これらは、アイドルというくくりの文化の中で、歌唱力よりもどちらかと言えば、ビジュアル的なパフォーマンス力に重きを置かれている文化である。
これに対し、アーティスト文化がある。
これはいわゆる歌手そのものの力量による文化である。
昨今のJ-POP界では、このアーティストの個々の力量が非常に高いレベルを保っている。
韓国では、次々とK-POPのアイドルグループが誕生し、完成されたパフォーマンス力を発揮しているが、それと同じように現代の日本に於いては、J-POPのアーティスト(バンドを含む)のレベルが非常に高いものが次々と誕生しているという状況がある。
特にこの数年、アニソンやVOCALOID音楽の台頭によって、かつてのJ-POPとは比べ物にならないほど、アーティストの実力が上がっている。そういう日本の業界の流れの中で、存在感を示すのは、日本の歌手と言えども、ベテランも含めて容易なことではないのが現実だ。
ジェジュンという人の評価は、ファン社会にいると実感出来ない。
これはジェジュンに限ったことではなく、どのファン社会に於いてもありがちなことだ。
自分がいい、と思った歌手の本当の評価は、対外的な評価によってしか図ることは出来ない。
ファンはあくまでも盲信的に応援するのが、どこの社会でも当たり前であり、それによって歌手は、自分の存在価値を認識する。だから、そのことを批判するつもりは毛頭ない。
多くのファンが、2年ぶりに帰ってきた彼の歌声に感動し、涙を流し、「また日本で歌えたのだからいいじゃないか」と思う。
だから、ここから書く記事は、そういうファンの人には読むことを勧めない。
しかし、彼の8年のブランクを支え、彼がどれほどの思いをして、日本活動を勝ち取り、再開させたのか、そして、今後、彼が日本の業界で、また歌手として成功して欲しいという思いを持つファンには、ぜひ、私からの提言を読んで頂き、ファンとして彼を支えて頂きたいと考えるのである。
【覚悟を持つことが求められている】
日本の業界は厳しい。
彼もよく口にするこの言葉は何を意味するのか。
私もこの業界に入るまで、なんとなく想像はしていながらもわかっていなかった面も大きい。
しかし曲がりなりにも業界の様子を知る立場になり、音楽評論家と名乗っていることで、自然と集まってくる情報もある。そして、ファンではない一般社会における歌手の認知度、というものも知ることが大きい。
出版業界やビジネス業界の知人が増えたことで、そういう人達から最近のJ-POP音楽についての質問や歌手についての話に花が咲くこともある。
そういう時、誰からも聞かれるのが、「誰が好きなのですか?」という質問である。
私の経歴にある「ある歌手」というのを知りたがる。
そういう質問を受ける経験の中で、ジェジュンという人の歌手としての日本社会における認知度と評価を客観的に知ることが多くなった。
元東方神起のメインボーカルだったジェジュンという名前を多くの人は知らないか忘れている。
「あー、ジェジュンね」とすぐに反応が来るのは、40代以上の韓流好き、または興味のある女性か、J-POP好きの40代男性。50代以降の男性は先ず知らない。そして、音楽にそれほど興味のない女性も知らない。
しかし、これが彼と同世代の氷川きよしや三浦大地になれば、老若男女誰でもが知っている。
ファン社会に於いては、東方神起の存在を知らないなどということは信じられないことであり、メインボーカルだったジェジュンのことは当然知っているはずだ、という認識がある。しかし現実は違うのである。
そして、業界的には、彼のポジションはどんなにJ-POPを歌っていても韓流である。
確かに韓国人だ。しかし、彼はJ-POPを歌うために日本に戻ってきた。J-POPのカバーアルバムを出し、あちこちの番組でも多くのカバー曲を披露してきた、それでも未だにCDショップでは、韓流のカテゴリーに入れられている。
そして、評論家の中には、韓流と知っただけで聞こうともしない人もいる。
どんなに勧めても「ごめん、韓国は無理だわ」という人もいるのである。
これは、彼が悪いわけでもなんでもない。
今まで日本で活動してきた韓国の歌手で、日本に骨を埋めた人間はいない。
どんなに売れていても、ヒット曲を持っていても、数年すれば韓国へ帰ってしまい、その後、2度と日本で活動をすることはない。たまに来て、コンサートやファンミを行うのが精一杯だ。
そういう歌手達を数多く見てきた結果、「韓国人は当てにならない。いつ帰るかもしれない」「結局、韓国へ戻るのだから」という評価が作られていくのである。
そういう先人達の作り上げてきた評価の中で、彼は活動していかなくてはならないのが現実なのである。
確かに彼は今までの韓国人たちとは異なる。
日本に住居を構え、日本での活動は、日本の芸能人達と同じように行っている。
日本語の曲によるCDをコンスタントに出し、カバーアルバムも出している。
彼の仕事の仕方は、日本のアーティスト達の仕事の仕方と何ら変わることはない、ただの一点を除けば。
その一点とは、韓国に帰ってしまうということだ。
当たり前だ、彼は韓国人で母国は韓国なのだから、戻るのは当たり前。
日本に住居を持ち、日本で多くのCDを出し、日本で活動してくれるだけでも有り難い。
そう思う人は、これ以降の記事を読むことをオススメしない。
なぜなら、私はそういう事実を踏まえた上で、彼に音楽業界の現実を知る人間として厳しいことを書こうと思うからだ。
私が今回、彼の歌を聴いて感じた問題点は2つある。
一つは、鍛錬不足、明らかな練習不足だ。
これは最初の方にも書いたように、練習不足によるインナーマッスルの明らかな弱体化を感じた。
そしてもう一つは、加齢だ。
そう、彼が一番嫌う加齢についての影響が明らかに歌声に現れていると感じた。
しかし、この二つは、彼だけでなく誰しもが経験することであり、誰にでも起こり得ることである。
36歳という年齢は、どんなに外見的に若く見えても、体内の様々なところでは、変化が起きる。
特に声帯という器官は、成熟が遅いのに、老化は早い。
特に彼のようなハイトーンボイスの歌声の持ち主には、その影響が顕著に出やすい。
今回、彼は明らかに何曲もオリジナルキーを下げて歌っていた。
それを聴くだけで、彼の声帯がいい状態にないことは明らかだ。
伸びを欠き、力で押して歌わなければ、声量すら満足に出ない。身体から歌声が離れない。
これは誰でもない、彼自身が一番わかることである。
二部の最後の歌「We’re」は、非常に硬い歌声で、力で押して歌った結果、ハスキーさが勝り、彼の持ち味である美しい音色の響きはどこにも存在していなかった。
自分の歌声の調子が悪いことは、彼自身が一番わかっているはずだ。どんなにファンが素晴らしかった、涙が流れるほど感激した、と言っても、彼自身が納得出来ないだろう。
なぜなら、彼は自分の歌声の良かった時、伸びやかでどこまでも高い歌声が出たときの感覚を身体で覚えているからである。そのときの感覚は、彼の肉体に刻み込まれている。だから、彼自身が高音が出しにくい理由、伸びやかな歌声が出ない理由を探さなければならないのだ。
そして探した結果、ドラマ撮影が長かった、コロナの隔離期間で気持ちが落ちていた、疲れている、前夜、よく眠れなかったなど、多くの理由で自分を納得させるしかない。
しかし、それは一時的な理由であって、根本的原因ではないのである。
では根本的原因は何か、と言えば、それはただ一つ。
ボイストレーニングをしていないこと。
これに尽きるのである。
そんなはずはない、彼は歌手だからボイトレはしているはずだ、と多くの人は思うかもしれない。
しかし、彼はいくつものインタビューで答えている。
「練習はしない」
「本番が練習だから」
これは事実だと思う。
なぜなら、彼はおそらくデビューした時から現在まで本格的なボイトレというものを受けたことがないと考えられるからだ。
これは何も彼に限ったことではない。
日本でもアイドルとしてデビューした人達は、おそらくデビュー後の活動の中で、ボイトレを本格的に定期的に、そして持続的に受けている人達は皆無だろう。
私の知る限り、アイドル出身で持続的にグループ時代からボイトレを受けてきたのは、手越祐也しかいない。彼はジャニーズの後輩達に、「ボイトレを受けろ。アーティストになりたかったら、歌を一生懸命やれ」というアドバイスをしていると聴いたことがある。
これはジャニーズでは歌よりもダンスパフォーマンスに重きが置かれている傾向が強かったからである(SixTONESやSnow Manなどいくつかのグループは例外的にある)
アイドルの場合、デビューするまではボイトレやダンスの基礎的訓練を受けるが、デビュー後は、仕事に追われ、そういう基礎訓練に時間を割くことが難しいという現状になる。
すると新曲のたびに、新しい振り付けを覚えることで、ダンスの訓練はされるが、歌に関しては、楽譜を貰い、それを歌ってハーモニーが作れればそれでOKということになりがちだ。
一からボイトレをして、徹底的に歌を鍛えてからダンスパフォーマンスを覚える、という訓練はしなくなる。
ジェジュンの場合を考えてみれば、東方神起時代、二ヶ月に一曲というサイクルで新曲が発売されていた。二ヶ月に一曲ということは実質、どういう状況になるかと言えば、
新曲を貰う。
ダンスパフォーマンスを覚える。
譜読みをして歌えるようになれば、録音。
そして録音が終わったと思えば、また次の新しい譜面を渡される、というサイクルになる。
当然、その間にMV撮影が入り、番組での販促活動があり、アルバム制作やライブツアーもこなしていく、ということになれば、とにかく仕事をこなすことが精一杯で、基礎的訓練をしている時間はないのである。
また、24時間、アイドルは事務所に生活を管理されている。
起床して、それから就寝までの1日のスケジュールは分刻みで組まれている。
今日の仕事は〇〇で、移動は事務所の車、次はここ、次はここ、とベルトコンベアーに乗せられたかのように、全てが管理されていく中で、生活するのである。
身体の管理も、声帯の管理も、全て事務所が考える。
彼は、言われて通りに、ハイ、ハイ、と生活すればいいのである。
そうやってアイドル生活を行なってきた。
「本番が練習」というのは、まさにそういう生活のことを言う。
番組収録やライブツアー、CD録音というものを通して、彼は一年中歌ってきたのだ、
一日に何曲も歌う日もあるだろう。
ましてや東方神起時代は、日本と韓国の活動を掛け持ちし、睡眠時間を削って、ほぼ初見に近い楽譜を見て歌う、ということも頻繁に起きていたかもしれない。
20代の若い声帯と肉体だからこそ、ボイトレという準備運動も基礎運動もしなくても、声帯は自由自在に反応したし、伸びも良かっただろう。
しかし、そういう生活を続けてきて、日本活動が打ち切られた途端、彼はほぼ歌えなくなったのである。
韓国時代は、年に数回、歌えるかどうか、という状況の年もあった。
韓国時代に一番歌えたのは、皮肉にも入隊中だ。
入隊していた一年十ヶ月は、本当に歌う機会が多かった。
あの体験の中で、彼はソロ歌手として鍛えられたと言っても過言ではない。
肉体的には辛いことも多かったかもしれないが、歌手としては十分に満足できたはずだ。
そして除隊後、日本でのツアー以外は、歌う機会がほぼない生活を送ってきた。
こうやって彼の活動を振り返ってみれば、彼がボイトレという基礎訓練をする機会は多くあったに違いない。
しかし、彼の感覚の中で、「本番が練習」「本番の為に練習する」という意識しかなければ、本番がなければ練習しない、ということになる。
果たして、これが歌手の生活だろうか。
韓国では、デビュー前に徹底的に訓練をし、完成された形でデビューすることが常である。
では、一度完成されたら、永遠に歌声を維持できるものなのか。
そうではない。
歌は、スポーツと同じなのだ。
声帯自身も粘膜という筋肉の一種だし、声帯が伸縮するときには、周囲の筋肉を使う。
筋肉を使うということは、スポーツと同じで、使わなければ、動きが悪くなり、痩せてくる。即ち、声帯が痩せてくるのである。
では、声帯の筋トレとは何かといえば、それは「歌う」という行為のみである。
歌うときに使う筋肉の使い方と、話す時に使う筋肉の使い方が違う限り、どんなに話してもボイトレにはならない。
歌は声帯だけでなく全身の筋肉を使う全身運動なのだ。
だからこそ、歌わなければ、その筋肉を使うことはない。
そしてどんなに筋トレしても、歌に必要な筋肉を鍛えることは出来ない。
だから、日本で長く活動しているアーティスト達は、ボイトレを欠かさない。
ボイトレを怠れば、歌えなくなること、自分の満足のいく声が出ないことを知っているからだ。
氷川きよしは、毎日、ボイトレをすることで有名な歌手だ。
あれだけ歌えて、声も出て、その上に彼のスケジュールは、ほぼ一年中、歌っている。
春と秋には全国ツアーが組まれ、夏は、歌舞伎座や明治座などで、芝居とショーを行なっている。年末には、単発ライブを行い、紅白歌合戦に出て、一年が終わる。
そんなスケジュールをもう20年以上も行なっている。
それだけ歌っている彼でも、仕事のない日は、ボイトレを行なう。
それほど鍛えているからこそ、あの年齢で、演歌からロックに移行することが可能なのだ。
歌い過ぎとも言えるほどの過密スケジュールの結果、先日もポリープを手術した。これで二度目の手術になる。
氷川きよしは極端な例かもしれないが、歌手は皆、ボイトレを熱心に行う。
これは高齢になればなるほど、その重要性が高まってくる。
そして基礎訓練をしっかりやれば、歌声は戻ってくるのである。
必ず戻る。
幾つになっても筋トレすれば、きちんと身体に筋肉がつき、体力が戻るのと同じで、ボイトレをすれば、幾つになっても声は出るのである。
石川さゆりや、布施明、郷ひろみや松平健などは、明らかに声帯を鍛え直している。
そうやって落ちた歌声を取り戻しているのだ。
ジェジュンは36歳。
今が非常に重要な時期になる。
なぜなら、彼はほぼこの10年、本格的なボイトレをしてきていないからだ。
彼の歌声は、ライブで、いつも出だしが悪い。ライブの後半になって調子が戻ってくるのは、明らかに事前に発声練習をしていないからだ。
ツアーでも、ツアーの最初の頃よりも、最終日に近くなればなるほど、彼の歌声の調子が良くなるのは、本番が続くことで声帯が鍛えられるからだ。
そうやって非常に良い状態にあった時に、ツアーが終わる。
終われば彼が歌うことはなくなる。
そうやって、せっかく鍛えられた声帯は、また使われなくなるのだ。
この繰り返しの状態が、日本活動と韓国活動を行う限り、延々と続くのである。
なぜなら、韓国では日本ほど歌う機会はないからだ。
長い時は、半年以上、声帯は本格的に使われることがなくなる。
せっかく鍛えた筋肉は、その間に痩せてしまう。
この繰り返しなのだ。
私が今回の記事のタイトルに浮かんだ言葉、
「覚悟が求められている」というのは、まさに彼の歌手としての覚悟、そして日本活動への覚悟である。
『六等星』をコラボという形で日活を再開させたのを知った時、彼が非常に日本活動を再開させることに不安だったのを感じた。
ソロで歌うことへの不安、ファンが待っていてくれるのかという不安、果たして、二年近いブランクがあって以前のように活動できるのか、日本の業界は自分を受け入れてくれるのかという不安と、期待に答えられるのだろうか、という不安、そして、「ジェジュンは歌が上手い」と評価されていることへの不安。
そういうものが彼にプレッシャーとしてのしかかった結果、コラボという提案を受け入れたと感じた。
しかし、業界側の人間から言わせれば、コラボするということは、「過去に戻る」ということを意味する。
実際に二人のサウンドは、東方神起時代のハーモニーだった。
ファンにすれば懐かしく嬉しかったかもしれない。
しかし音楽業界的にみれば、何の進歩発展もないサウンドである。
10年以上前のサウンドが、今のJ-POP業界に通用するほど、日本の音楽界は甘くない。
彼らのサウンドが受け入れたれていた日本の状況とは明らかに違う。
特に今の若い世代は非常に耳が肥えている。
今のVOCALOID音楽やアニソンなどの流れとは異なるサウンドで勝負できるほど、甘いものではない。
話題性と楽曲の良さで、ある程度のヒットはするだろう。
しかし、その先はない。
もう一度コラボしたなら、彼がソロ歌手として築き上げてきた日本での実績は全てゼロになる。
なぜなら、「ああ、やっぱりソロでは歌わないんだな」と思うからである。
彼が音楽業界の中で高い評価を受けてきたのは、グループ活動を辞めて、ソロ歌手として一人で戻ってきたからだ。
韓国人というハンディーを背負いながらも単身で日本の音楽界に戻ってきた。
それがどれほど大変なことであり、これからも大変なことが続くとわかっているからこそ、多くの人が手を差し伸べて、彼をサポートしてきた。
「韓流だろ?」という偏見を持っていた人達も、彼が日本に住居を構え、カバーアルバムを二枚も出し、日本語で歌うのを聴いて、彼への評価をあらため、韓国人だが、今までの歌手達とは違う、と認識を新たにした人も多かった。
そんな評価を、今回のコラボは覆すのに困らないだけの理由なのだ。
彼の日本でのアーティストとしての成功を本当に望むなら、彼はどんなにしんどくても、どんなに気持ちが下がっても、どんなに不安で堪らなくても、一人で黙々とボイストレーニングを積み、ソロ歌手として日本の音楽界の中で立っていかなくてはならない。
その覚悟が彼に出来るのか、ということを業界は見ているのである。
私が12年前に彼の歌声を初めて聴いた時、
彼は必ずソロになる、と思った。
なぜ、ソロにならないのか、不思議でたまらなかった。
それぐらい、彼はソロ歌手としての才能に溢れていた。
この日本で彼ほど歌えるソロ歌手が何人いるだろうか、と考えても思い浮かばないぐらい、彼の歌声は優れていた。
だから彼の音楽人としての才能にリスペクトしたのだ。
彼は非常に努力家で、真面目で、素直だ。
その性質がある限り、どこまでも歌が上手くなる。
そう思った。
あとは、自信を持つこと。
自分を信じ切ることだけだ。
その自信は、練習を積むことでしか得られない。
どんなに才能に溢れた人間でも、練習をしなければ、成果を得ることは出来ない。
ステージに出る前、誰もが逃げ出したくなるほどの恐怖と戦っている。
ましてや、何万人という観客を前にしてのステージなら、尚更のこと震える。
そんな時、自分を支えるのは、それまでに培ってきた練習量しかない。
あれだけ練習したのだから大丈夫。
あれだけ毎日、積み重ねてきたのだから大丈夫、という肉体の記憶だけが、自分を支える。
今年75歳になる布施明でさえ、55年という歌手生活を迎えた彼でさえ、先日のコンサートで、「コロナ禍で長く歌えない間、そして久しぶりに歌うことは、不安で堪らなかった」と話していた。
彼だけじゃない。
日本のアーティスト、みんなが不安なのだ。
不安でたまらなかったのだ。
だからこそ、YouTubeやインスタを使って生の歌声を配信し、ファンとの絆を深め、その反応を手応えにして、練習をすることで、自信を取り戻そうとしているのだ。
彼だけが不安なのじゃない。
エンタメ業界、みんなが不安なのだ。
そんな中で彼が日本に戻ってきたことに対する関心は業界的に必ずある。
彼が戻ってきて、果たして今年、どれほどの活動を日本で行うのか。
それをじっと見ているのである。
韓国へ戻り、日本との二重生活を続ける限り、いつまでも業界からみれば、彼はお客さんである。
その感覚は抜けきらない。
そして、彼の知名度も歌手としての実績も、一部の人間、ファンだけが知るという状況は変わらないのである。
今年、彼が日本活動に主軸を置き、しっかりと日本の業界の中で根を張る活動を行うのか、それともやっぱり限られた期間だけ歌手活動を行なって、韓国へ戻るのか、
それによって、今後の彼の評価は決まる。
さらにコラボをするのであれば、韓流というレッテルから逃れることは出来ない。
どんなに彼がJ-POPを歌っても、誰も彼をJ-POP歌手だとは認めないだろう。
それぐらい、日本の業界の見る目は厳しいのである。
それは、彼という人に対する期待の裏返しでもある。
彼なら、今までの韓国人歌手と違って、本当にJ-POPの音楽を歌い続けてくれるだろう。
日本の多くのアーティストに刺激になる存在になるはずだ、という期待。
そういうものの裏返しが、厳しい目となって、彼を見ることになるのである。
彼には覚悟が求められていると思う。
日本に骨を埋めるぐらいの覚悟、
そして歌手として基礎からやり直すぐらいの気持ちで練習に取り組む覚悟。
今年は歌手ジェジュンにとって、正念場の一年になる。
そう思う。
彼の不安はよくわかる。
だからこそ、厳しい記事を書いた。
それが音楽評論家としての私の役目だと思うからである。
彼が歌うJ-POPの歌は、必ず多くの日本の歌手の刺激になる。
彼だからこそ、歌える世界がある。
それを多くの日本人に伝えてほしい。
そう願っている。
文責 松島耒仁子(J-POP音楽評論家)