FNS歌謡祭でジェジュンがカバーした中森明菜の『セカンド・ラブ』

この曲は、中森明菜の代表曲であり、多くの歌手がカバーしている曲でもある。

この曲のジェジュンの歌い方は、オリジナルを踏襲しているという印象を持っていたが、実は違うということをあらためて聞き直して感じた。

そこには2人の音楽観の違いが顕著に出ていると感じる。

 

『セカンド・ラブ』は、2度目の恋をしている女性が、今度は自分の気持ちを素直に表現したいと思いながらも、彼を目の前にすると、やっぱり素直に伝えられないという心のもどかしさを綴った歌だ。

この切ない心情を甘いメロディーラインに乗せることで、さらに聴く人の哀愁を誘う音楽になっている。

2人の歌い方は、最初から異なる。

 

先ず、中森明菜の歌い方の特徴は、フレーズの語尾の処理にある。

フレーズの最後の言葉の語尾の響きを全て抜いて歌っている。言葉の語尾の力を抜いて響きを抜き、短く切ってしまうのだ。その為に、聴いている人には、言葉がフェイドアウトしている、またはプツンと切れるような印象を持つ。歌うという印象よりもどちらかと言えば、ポツポツと言葉を語り綴っている、という音楽の作り方になる。それは、心の中にあるものを訥々と語っている、という印象だ。

 

これに対し、ジェジュンの歌い方は全く異なる。

彼の場合は、言葉の最後の文字まで綺麗に響かせて歌い切っている。明菜のような短いフレーズという印象は全くなく、全てのフレーズに於いて、綺麗に歌い切っていく。彼の場合、言葉の一つ一つを丁寧に発音して歌い切る、という表現方法になっている。そのために音楽は横に滑らかに流れ、歌詞の言葉の世界観よりも、切ないメロディーの音楽が顕著に浮かび上がってくる、という表現になっている。

 

この二つの表現法の違いは、そのまま2人の音楽の作り方の違いに共通する。

中森明菜の場合、言葉の世界観を全面に出していく。これに対し、ジェジュンの場合は、言葉の世界観よりも音楽の持つ世界観が重要視されている。

これは、ジェジュンのJ-POPを歌うときに共通する表現方法で、中島美嘉の『僕が死のうと思ったのは』の2人の表現法の中にも書いた。即ち、ジェジュンの場合は、あくまでも「歌う」ということが主体になる表現法になっている。

 

サビの部分における2人の表現法には、これほどの違いは見られない。

中森明菜も非常部エネルギッシュに歌い上げてくるし、ジェジュンももちろん、そのように歌っている。

あえて違いを言うならば、

「帰りたくない〜」から始まるフレーズが、音楽の作りとして少しずつアッチェランド((せきたてるように前へ前へと音楽が動いていく)の部分において、中森明菜は、その場に止まって歌を前に進めることなく、丁寧に歌っていくのに対し、ジェジュンは音楽の流れに乗って、前へ前へと歌を進めていく、というスピード感の違いがあることを感じさせる。

これも、2人のこの曲に対する感覚の違いが、そのまま歌い方の表現方法に現れていると言える。

ようするに中森明菜は、あくまでも冷静に、少し距離感を持って、この歌を歌うのに対し、ジェジュンは曲との距離感を詰めて、自分の気持ちの高揚をそのまま表現していく、という手法の違いを感じさせる。

 

このように、カバー曲に於いては、それぞれのアーティストの持つ音楽感の違いが楽曲に顕著に出るため、同じ曲でありながら、全く違った印象を持つ楽曲になったりする、という現象を生むのである。

 

どちらにしても、カバー曲を歌うという行為は、カバーする側の歌手に、オリジナル性が確立されていなければ、単なるコピーになる恐れがあり、魅力的な歌にはならない。

そういう意味で、カバーを歌うというのは、それ相応の実力とオリジナルの音楽性を確立できている歌手にだけ許される特権でもあると、私は考える。