この曲と「飛行船」を聴くと、いつも東洋のオリエンタル観を感じるのは私だけだろうか。
両曲とも彼が尊敬して止まないNao’ymtの曲だ。
三浦大知が日本語に拘る理由を私は彼の一つの発言からしかわからない。
「日本語の歌が普通に欧米の街角に流れ、あー、三浦大知の新曲だね、とみんなが思う。そんな光景になりたい」みたいなことを彼が話しているのをどこかで読んだか聞いた記憶がある。それが凄く印象的だった。
彼は確かアメリカに留学していたはずだ。
沖縄育ちの彼の中には、英語も日本語も同列の感覚があるのかもしれない。
日本語だから、英語だから、と区別するのではなく、同じ「言葉」というカテゴリーの中での同列。
だから日本語の曲が世界を席感してもいいじゃないか、という感覚を持っても不思議でないかもしれない。
彼の歌声を聴くと、日本語の明確さが見事だと思う。
これはテクニック的に言えば、英語に堪能な彼が英語のタンギングで日本語の歌を歌っているからに他ならない。
発声を変えてミックスボイスになった彼の歌声のポジションは、見事にトゥワングの場所に当たっている。それがテクニック的には彼の日本語を明確にしている要因だと思う。また、彼の歌声がこの数年進化しているのもその為だろう。
彼は、R$Bというジャンルと日本語を融合させて、彼にしか表現できない世界を作り上げた。
Nao’ymtの世界に傾倒するのは、そこに東洋的感覚を感じるからだろうか。
私はファンの人のように詳しくないから、彼の歌を聴いて感じることを書くだけだが、彼の中王の日本への拘り、日本語への拘りのようなものは、彼が日本人であることへのアイデンティティーへの拘りのようにも感じる。
R$Bという日本には馴染みの少なかった音楽ジャンルを浸透させること。その音楽の世界を知るからこそ、日本語に東洋に拘る彼のスタンスがNao’ymtの世界観と融合するのかもしれない。
どちらにしても、この東洋的世界観は彼にしか表現出来ない世界あることだけは確かであり、彼の音楽の奥深さを知る大切な色彩の一つだと言える。