たったひとりのアーティスト、たったひとつの曲に出会うことで、人生が変わってしまうことがあります。まさにこの筆者は、たったひとりのアーティストに出会ったことで音楽評論家になりました。音楽には、それだけの力があるのです。歌手の歌声に特化した分析・評論を得意とする音楽評論家、久道りょうが、J-POPのアーティストを毎回取り上げながら、その声、曲、人となり等の魅力についてとことん語る連載です。

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J-POP界には優れたアーティストがたくさんいます。それぞれが独自の世界を築いていますが、椎名林檎の存在は、その中でも特筆すべき存在でしょう。彼女のデビューからの軌跡を辿りながら、音楽の世界観や歌手としての魅力に迫ってみたいと思います。

デビューまでのストーリー

椎名林檎は、現在44歳。1978年に埼玉県で生まれました。生まれて間もなく食道閉鎖症と診断され、大手術を受けています。父親の転勤に伴い、静岡県に移り住み、さらにその後、福岡県に転居しました。

幼少期はクラシックバレエやピアノを習っていましたが、食道閉鎖症の手術による左右の筋肉のバランスが保てないという後遺症からバレエの道を断念したとのこと。

バレエ音楽やクラシック音楽ばかり聴いていた時期から、ポピュラー音楽や歌謡曲が好きな両親の影響もあって、次第に五輪真弓、太田裕美、寺尾聰、ペドロ&カプリシャスなどの日本の楽曲やビリー・ジョエル、サラ・ヴォーンなどを聴くようになります。

また、中学に入ると兄椎名純平(シンガーソングライター)の影響でソウルミュージックやR&Bなどブラックミュージックに惹かれるようになっていきました。

福岡県の筑前高等学校に入学後、軽音楽部に入部。部活動とは別にバンド活動をするようになり、最初はコピー音楽ばかり演奏していたと言います。

高校時代には、ロックバンドBLANEY JET CITYの音楽から日本語の良さに目覚め、あらためて日本の楽曲を聴くようになり、やがて彼女自身で詞を書き、曲を作り、それを演奏し始めました。

彼女が高校2年の1995年、「Marvelous Marble(マーブルス・マーブル)」というバンドで「第9回TEENS’ MUSIC FESTIVAL」に出場。福岡地区で1位を獲り、全国大会で奨励賞を受賞。

このときティーンズ大賞・文部大臣奨励賞(グランプリ)だったのがaikoで、その後も2人は友人関係を築いています。

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同年秋、彼女は「長崎歌謡祭」に出場し、ファイナリストになり、高校2年3学期終了後、学校を中退。

ピザ屋や警備などのアルバイトを経験しながら、音楽活動を続け、1996年「The 5th MUSIC QUEST JAPAN福岡大会」にバンドで出場。大会関係者にソロ転向を勧められたことから、同大会決勝「MUSIC QUEST JAPAN FINAL」では、ソリスト『椎名林檎』として出場。優秀賞を獲得しました。

この賞がきっかけとなり、さまざまなレーベルから声がかかりますが、その中でも非常に熱心だった東芝EMI九州エリアの担当者の紹介で、東芝EMI制作ディレクター・篠原雅博と契約を交わし、プロとしての歩みを始めました。

椎名林檎という名前は、「りんご」という物の名前がついた非常にユニークな名前ですが、これには諸説あって、ビートルズのメンバーであるリンゴ・スターから取ったという説。これは、彼女がもともとバンド活動をドラマーから始めたことから、同じドラマーであるリンゴ・スターの名前を取ったというのです。

また、幼少期から、何かにつけてすぐに頬を真っ赤にする癖があったことから、「りんご」という名前で呼ばれており、そこからついたという説もありますが、私が調べた限りでは、彼女自身の答えは見当たりませんでした。

いずれにしても、後にリリースされることになった『ここでキスして。』や『ギブス』の楽曲を高校時代にJASRACに登録するのに名前が必要であるということから「椎名林檎」を名乗り始めたのでした。

『ここでキスして。』、そして『本能』のインパクト

 

続きはこちらから椎名林檎『常に時代を先取りするものづくりの名手』(前編)人生を変えるJ-POP[第32回]|青春オンライン (note.com)