『J-JUN THURSDAY PARTY覚悟が求められている』の記事には多くのアクセスとコメント、メッセージを頂いた。

今回、記事の追加記事を書かせて頂こうと思ったのは、そういう多くのファンが、非常に彼の状況や将来、そして日本活動というものに不安になっていること、そして懐疑的になっていることを感じたからだ。

そして、この日本でジェジュンがソロ歌手として活躍すること、成功を願っているファンが本当に多いのだと感じた。

良識のあるファンが多くいる。

Twitterで呟くでもなく、彼にリプライするわけでもない。Instagramにコメントを残すこともしない。それでも彼の活躍を願い、成功を願っている。ただひたすらに彼を見守っている。

そういうファンが数多くいることを知ることが出来た。

日本活動再開後にファンになった、という人も多いということも知った。

そういうファンが「はじめてコメントします」と言って、コメントやメッセージを送って来て下さる。彼はこういう良心的なファンに支えられているのだということを今回、あらためて感じさせて頂いた。

そして誰もが彼の歌手としての将来を案じ、ボイストレーニングをすること、基礎に戻ることを願っている。

それを感じた。

 

前回の記事で、私は彼に非常に厳しい忠告を突きつけた。

それは本人が目にしたら、きっと辛いことの連続だろう。でも誰かが言わなければならない。誰かが書かなければ伝わらない。書いても本人が目にするとは限らない。

仮に目にしても最後まで読むとも限らないのだ。

それでも私は、この12年、彼の歌手としての活動をずっと見守って来た一人として、書かざるを得ないと感じた。

そう感じさせるほど、彼の歌は良くないと感じた。

声が荒れている。息が続かない。身体に柔軟性がない。

歌を歌う身体を作って来ていない、ということを感じさせた。

このまま、彼がこの状態を続けていけば、確実に歌が歌えなくなる。

そう思わせるに十分な状態だったのだ。

 

彼の言葉に拠れば、今年はオリジナルアルバムの2枚目を出し、さらにツアーの予定があるという。

今までのように、韓国と日本の二重生活をしながら、ツアーを組むということは結局、またスケジュールに振り回され、やっつけ仕事のライブになる、ということである。

今回、何人もの方から、「CDを聴き、ファンになった。音楽番組で彼の歌を聴くたびに、こんなはずじゃない、こんな歌じゃない、調子が悪いだけ、と自分に言い聞かせて来た。前回のオンラインライブでの印象を今度こそは覆してくれると期待したが、そうじゃなかった。気持ちが冷えていくのを感じる」というメッセージを貰った。

前回の私の記事は、何も難しいことを要求しているわけじゃない。

プロであるなら、聴衆にそういう思いをさせる歌を歌うのは、歌手としてどうなのか、という根本的な問題なのだ。

歌手としての基本姿勢を問いかけているだけなのである。

 

彼には才能がある。

それは紛れもない事実だ。

彼のような歌声を持っている歌手は日本でも思い浮かばない。

彼が気力、体力共に充実した歌を聞かせる時、おそらく日本人で右に出る人は、そう多くない。

それが証拠に、東方神起時代の彼の歌は、どれも非常に充実している。

彼の歌手としての本領は、ソロであるときに、最も輝く。

それは、そういう歌声を持って生まれて来ているからである。

 

歌声は、誰一人として、同じ人はいない。

そして、天が与えたものだ。

どんなに真似しても、どんなにジェジュンになりたいと願っても、ジェジュンの声には誰にもなれないのである。

そういう唯一の歌声を持って生まれて来ている。

だからこそ、ここまでのポジションを築けているのであって、多くの人の持つ歌声と同じようなものなら、到底、ソロとして立っていくことは出来ない。

その才能も持ち味も、彼は、伸ばし切れていない。

そのことを残念に思うだけなのだ。

 

彼がこのような状況になっている最大の要因は、

 

彼が「歌手」という椅子に座っていないことに尽きる。

 

「自分は歌手だ」とどんなに宣言しても、その仕事の内容は、歌手に偏ったものになっていない。

 

普通、歌手という職業は、俳優業やタレント行と並行して出来るほど、簡単な仕事ではない。

歌手は皆、一年のほとんどを音楽活動に費やしている。

アルバムを制作したり、自分で作曲や作詞をしたり、新しい歌のジャンルに挑戦したり…と、

私達の前に姿を現さない期間も必ず音楽活動を行なっている。

それが日本でいう「歌手」というものだ。

 

彼がライフスタイルを憧れる福山雅治も、年間の大半の時間をツアーやライブ、作曲活動などに勤しんでいる。

確かに福山雅治や星野源は、俳優業も行う。

しかし、二人とも本業は何か?と聞かれたら、誰もが「歌手」と答えるだろう。

それは、彼らが歌手としてのポジションをきちんと築いているからに他ならない。

 

では一般の人々が歌手として認識する条件は何かといえば、それはただ一つ。

オリジナルのヒット曲を持っているかどうかに尽きる。

星野源は、ドラマ『逃げ恥』の主題歌『恋』でビッグヒットを飛ばし、福山雅治は、名曲と呼ばれる『桜坂』を始め、数々のヒット曲を持つ。

即ち、音楽にそれほど興味のない一般人でも、知っているオリジナル曲の存在。

これが不可欠なのである。

彼らはそういうものを持ちながら、数年に一度、俳優の仕事をする。

日本で歌手業と俳優業の兼業が可能なのは、ドラマのクールが短いからだ。

1クール3ヶ月、実質は2ヶ月半ほどのクールで展開される日本のドラマは、身体の負担も重くなく、その期間、歌手としての仕事が全く出来なくても、それほど喉や筋肉に影響は与えない。

その期間、歌手業を休んでも、十分にアルバム制作もツアーも組むことが出来る。

しかし韓国ではこうは行かない。

週に2度の放送という過密スケジュールの上、放映期間が長く、撮影は半年以上に及ぶ。

実際の撮影期間だけで半年以上もかかるということは、ドラマの役作りの為の準備などを合わせると、ほぼ10ヶ月近くを俳優業に拘束されるということになる。

また、長時間の撮影で身体は疲れ切っている。

そんな身体では、満足に歌うことなど出来ない。

第一、気力が続かない。

「歌う」という行為は、気力、体力が充実してこそ、いい歌が歌えるというものなのだ。

その上、彼の場合は、韓国と日本を行ったり来たりする。

そういう環境の変化は、精神的にも肉体的にも、本人が自覚するよりも大きくダメージを与えていることが多い。

彼が「福山雅治さんのように、俳優と歌手を両立したい」と言うのであれば、それは日本のドラマにおいてのみ可能なことだと言えるだろう。

 

彼が韓国でドラマの仕事をするのは仕方ない。

なぜなら、韓国で大手事務所とのトラブル以降、まともに音楽活動をすることが出来ないからだ。

だからこそ、メンバーは俳優になったり、ミュージカル歌手になったり、と、別の道を歩かざるを得ない。

その中で彼は俳優という仕事を選ばざるを得ない。

これが韓国での現実だ。

 

でも彼はずーっとこの12年、「歌が歌いたい」と言い続けている。

「ライブをしている時、ステージに立っている時、本当に幸せだと感じる」と話している。

「歌を歌うため」に日本に戻って来ている。

だったら、私は彼に、「歌手の椅子に座れ!」と言いたい。

 

歌手の椅子にきちんと座ること。

腰かけ程度で、すぐに他の仕事をするのではなく、

歌手の椅子に深く腰かけ、しっかりと足元を築くことだ。

本当に歌手として生きていきたいなら、オリジナルのヒット曲が出るまで、じっと我慢して歌い続ける。

その覚悟が必要だと私は思う。

 

多くの歌手は、彼ほどの華も満たなければ、彼ほどの美声も持たない。

それでもヒット曲が出るまで、来る日も来る日もじっと我慢して歌い続けている。

 

彼のように最初から、恵まれた環境やスタッフの中で仕事することもない。

それでも自分の才能を信じ、自分の声に磨きをかけ、コツコツと努力し、ヒット曲に巡り逢えるまで、ただひたすらに歌い続けている。

そんな歌手が殆どである。

それでもヒット曲に巡り合えるのは、ほんの一握り。

ましてや、ゴールデンタイムのドラマの主題歌など、歌えるチャンスを貰える歌手がどれぐらいいるだろう。

それが現実なのである。

 

彼が本当に歌手でいたいなら、歌手という椅子にしっかり座って、じっくり仕事をすることだ。

タレント業も、俳優業もしなくても、誰も彼のことを忘れることなどない。

多くの歌手は、自分のアカウントを使って、ライブ配信をしたり、自作曲を披露したりして、歌手としての活動を見せている。ライブが出来なくても、そうやって、自分で歌手としての活動の一端を見せることで、「歌手」という椅子に座り続けているのである。

 

彼は、「歌手」という椅子に座っているだろうか?

深く腰をかけて、突然、大きな力が働き、彼を引っ張っても、その椅子から離れないほど、しっかり座っているだろうか?

誰かがその椅子を奪うことなど出来ないぐらい、しっかりと根を張って座っているだろうか?

 

日本の業界は、椅子取り合戦だ。

彼が座っている「椅子」は、誰もが狙っている。

そして、彼が振り落とされたら、すぐに誰かがその椅子を奪うだろう。

そんな世界なのだ。

 

彼は、この日本で、誰もが知る「歌手」である、というポジションを築けていない。

誰もが知るオリジナルのヒット曲を持っていない。

それは、まだ彼の椅子が「指定席」になっていないことをあらわしている。

誰もが彼の椅子に座ることの出来る「自由席」なのだ。

 

彼が、この日本で彼にしか座れない「指定席」に座ることを願っている。

その資格も才能も彼には与えられている。

それを行使するかどうか、それを磨き上げるかどうかは、彼自身の自覚にかかっている。

 

彼は、歌手という椅子に座ることが出来るだろうか?

それ以前に、彼がそれを本当に望んでいるかどうか、

 

それが今年の彼の正念場だ。

 

彼自身が自分の気持ちをよく観察すること。

それが、一つのキーポイントになる。