手越祐也が川崎鷹也の「魔法の絨毯」をカバーした動画を見た。

そこに今までのカバー曲とは違うものを感じた。それは、彼がオリジナルを表現することに躊躇しなくなったという印象を持った。

オリジナルの川崎鷹也の歌が素朴で訥々と歌い綴るものであるなら、手越祐也の「魔法の絨毯」はキラキラ光った甘い香りの歌だった。

 

手越の歌声は全体に甘く、今回の歌に関してはさらにその音色の特徴が顕著だった。

また音楽の流れが縦刻みではなく、横に流れていく。フレーズの切り方をあえて緩慢にすることで甘い響きがそのまま次のフレーズに横滑りする。

川崎の歌も決して縦に刻んだ音楽ではないが、手越のそれは、オリジナルよりもっとリズム刻みが緩慢だった。

全体を横滑りのリズムで包み込むことで、歌声の甘い響きのビブラートを強調している。

全体に鼻腔に響きを集めるフレーズが多かった。

これは、YOASOBIの「夜に駆ける」の歌とは全く対称的な歌作りになっている。

「夜に駆ける」の場合の彼の歌声は、甘い響きを消し、ビブラートを極力押さえ、縦刻みの鋭いタンギングで、高速メロディーを正確に表現した。

それに対し、今回の「魔法の絨毯」では、甘い響きを強調し、丁寧に言葉を横に繋いでいくことで、太い線の音楽を作り出すことに成功している。

 

カバー曲を歌うことのメリットは、様々な表現力を身につけることができる点だ。

オリジナルの歌い方を踏襲することで、優れた歌手のパフォーマンスを手に入れることが出来る。

しかし、さらにそこから進化した歌い方をするには、オリジナルから脱却し、自分の色に染め上げ、別の楽曲に仕上げていくことが必要になる。

このどちらもが、しっかりとした自分の音楽を持っていなければ、それは唯の上部だけの物真似に終始してしまう。

例えカバー曲であっても、優れた歌手は、オリジナル性を大切にしながら、そこに自分にしか表せない色を加えていくのだ。

 

手越の歌を聴くと、もう既に彼のオリジナル性、音楽性が確立され始めたことを感じる。

これは、私の持論だが、たとえグループでメインを歌っていたからと言って、ソロ歌手になれるとは限らない。

どんなにメインで多くのフレーズを歌っていたからと言っても、そこには何人かの歌声があり、その支えや力によって引き出されているものが必ずある。

そういうものから離れ、楽曲の最初から最後までを一人で歌い通せる力があるかどうかは、全く別次元の問題である。

即ち、グループのメインボーカリストと、ソロ歌手とでは根本的に全く違うのである。

メインボーカリストが、全員、ソロ歌手としての素養を持っているかどうかは、甚だ疑わしい。

だから、グループで歌っていた時は、あれほど輝いていたのに、ソロになった途端、なんだかパッとしない、という歌手はたくさんいるのである。

ソロ歌手として成り立つかどうかの素養はいくつもあるが、最も重要なものは、オリジナル性を持っているかどうかである。誰かに引きずられて、または、他の声に引き出されて発揮されている音楽性ではなく、あくまでも、自分の足で立って歌えるだけの音楽性とオリジナル性を兼ね備えていなければ、ソロ歌手への転向は難しい。

そういう点から考えると、手越の歌は、ソロ歌手に転向した時のどことなく遠慮がちな音楽から、完全に自分のオリジナル性を披露することに躊躇がなくなったと感じた。

 

ここからが本当の意味での歩みが始まるのかもしれない。

ソロで歌うこと、一人でマイクの前で最初から最後まで歌い通すということに身体が慣れた、という印象を持った。

 

彼のオリジナルを聴いてみたいと思う。

彼がどんな楽曲を選んでくるのか、どんなジャンルを選んでくるのか、いくつ引き出しを持っているのか。

それがこれからの手越祐也の歌手としての人生を支えていく。

そこに彼の人間性が投影されていく。

それを見てみたいと思った。