ハーモニー部分に関して、事実齟齬があり、音源を精査し直しましたので、その部分の記載を削除し、記事を上げ直しました。

それに伴い、MV音源も精査し直し、内容を若干変更しています。

またソロ部分の分析に関しても手直しをしました。

 

 

ミュージック・フェアに出演したジェジュンの『六等星』を聴いた。

聴き終わった瞬間、「あー、やっと戻った」と思った。

また、こういうことを書くと、あちこちでディスられるのかもしれないが、仕方ない、私は評論家だから、自分の感じたことを書く。それが仕事。

で、最初に思ったこと。

「あー、やっと戻った」だった。

やっと落ち着いた気分で聴ける歌を彼が歌ったからだ。

 

『六等星』は確かにいい歌だと思う。

どこがいいかと言えば、わかりやすさだ。

メロディーの簡単さ、言葉が難しくない。

誰もが簡単に口ずさむことが出来る。

ある程度、ヒットする要素を持っている楽曲だ。

そういう意味で彼の今までの楽曲の中では一番大衆が親しみやすい曲だと思う。

 

J-POPというのは大衆音楽だ。

この大衆音楽というものは何なのか、ということを突き詰めれば、

それは「分かりやすさ」「親しみやすさ」「共感力」

これに尽きると思う。

即ち、誰もが簡単に覚えられて簡単に口ずさめる。言葉は無理でもメロディーは口ずさめる。

昨今のJ-POPは非常に言葉数が多いのが特徴だが、ヒットする曲は必ずメロディーに印象的な部分があり、そこだけでも口ずさめるようなものが多い。

米津玄師の『Lemon』YOASOBIの『夜に駆ける』優里の『ドライフラワー』DISHの『猫』などは、テンポが早く言葉数が多いにも関わらずヒットしている。

これらの楽曲に共通するのは、印象的なサビとわかりやすいメロディーだ。

たとえ歌えなくても何となく口ずさめる。耳の中に残る。

そんなわかりやすさを兼ね備えたものばかりだ。

そういう面から見ると、ジェジュンの今までの楽曲は、その条件を満たしているとは言い難い。

彼の歌はどちらかと言えば、難しいものが多かった。

これは、ファンにとってはそんなことはない、と言いたいかもしれない。

しかし、彼の歌を老若男女、誰もが口ずさめるか、と言えば、決してそんなことはない。では、誰もがサビを覚えているか、と言えば、それもNOである。

ファンという限られたコミュニティーの中だけで口ずさめても、それは大衆音楽とは言えない。

特に日本では、恋愛感情を歌った歌より、人生の応援歌、人を勇気づける歌、頑張る人を応援する歌、というふうに、誰かを応援する楽曲の方が圧倒的に好まれる。

そういう傾向から考えると、彼の今までの楽曲はヒットする要素が多いとは言い難かった。だから、CDセールスでは1位を取れても、楽曲が世間に浸透することはなかったと言える。

少し話が逸れてしまったが、そういう点で、今回の『六等星』という楽曲は、今までの楽曲の中では一番、大衆に寄り添った曲と言えるだろう。

 

この楽曲を彼は日本の音楽番組でソロで歌っている。

ソロで歌ったものを聴くのは、前回の「うたコン」に続いて2度目だ。

今回は、収録放送という安心感もあったのかもしれない。

とにかく「生放送」と「収録」では、精神的プレッシャーは大きく違う。特に彼のように緊張しやすいタイプだとそれはそのまま「歌」に反映される。

精神的余裕もあっただろう今回の歌は、「うたコン」とは見違えるほど別物だった。

歌い手の精神状態が「歌」にはそのまま現れる。

これが生身の楽器を使って演奏する「歌」というものだ。

 

まず、出だしから非常に落ち着いていた。この日の歌は、全体的に非常に落ち着いた雰囲気で歌えていた。

この楽曲は、彼の持ち味であるハイトーンボイスを披露する部分がない。

中音域から低音域の音を中心にメロディーが作られている。その為、全く誤魔化しが効かない。声を張り上げて歌う部分がないのである。そのため、歌手は歌声を慎重にコントロールする必要がある。

長くドラマ撮影をして歌から遠ざかった生活をしてきた彼の歌声のどの部分にその影響が出やすいかと言えば、それは「支え」、即ち、歌うときの核になる体幹の支えの部分に最も影響が出る。

何度も書いてきたように、歌う筋肉は歌うことでしか鍛えられない。

2年近く歌ってこなかった彼の体幹がどうなっているかは、歌をやらない人でも想像はつくだろう。

それは2年近く歩かなかった人が、いきなり歩けるかどうか。2年近く話さなかった人が、いきなり会話できるかどうかと同じレベルの話である。

それぐらい彼の身体は、「歌う」という動作に身体が反応しない状況だった。これは、どんなに彼が意思の力で、「歌うんだ」と思っても、彼の思い通りにはいかないのである。

ピアノや楽器は、1日練習しなければ3日前に戻る。1ヶ月練習しなければ、半年前に戻る、と言われる。

即ち、それぐらい、普段の生活で使わない筋肉を使って行う動作は、毎日動かすことが必要であり、動かさなければ動かなくなってしまう、ということなのである。

これは何も大声で歌うことが必要だと言っているのではない。ハミングでもいい。とにかく身体の筋肉、特に声帯を支える筋肉をいつも戦闘状態、要するにいつも歌える状態に保っておくことが「歌手」という仕事をする人には必要だと言っているのである。

そういう点から考えたとき、彼のこの2年近くは、到底、「歌手」という職業から離れたものだったと言わざるを得ない。

身体は正直である。

だから彼の歌は、以前とは全く別のものになってしまっていたのである。

これはファンがどう評価しようと関係ない。これが事実であり、贔屓目なしの評価である。

こういうことを書くと必ず私をディスる人がいるが、嘘だと思うなら、別の評論家に彼の歌声を評価して貰えばいい。

それほど自信があるなら、誰にでも堂々と彼を紹介できるだろう。但し、CDの音源はダメ。なぜなら、CD音源は一髪どりではないからだ。これは彼に限ったことではない。だから、「うたコン」の歌を聴かせて評価して貰えばいいと思う。歌声に詳しい評論家が聞けば、すぐにわかるはずだ。だからどうぞ。

別にファンが好き勝手にいうのは構わない。それはファンだから。

しかしいい加減な評価を彼が欲しがっているかどうかは別だ。なぜなら自分の状態は彼自身が誰よりもわかっているから。

だから、彼は今回の歌で見事に修正してきている。

 

今回の歌が、いつ収録されたものなのか私は知らない。

しかし、「うたコン」で歌った歌とは別人と言えるほどの違いを見せた。

まず、歌い出しから全てのフレーズでヘッドボイスが使われていた。

これが今までの歌と全く違う点である。

即ち、歌い方が非常に安定している。

 

以前、聴いたMVの音源を精査してみると、MVを聴く限り、歌声の響きという点で、彼は非常に不安定になっている。ある部分に於いては、瞬間的にポジションがチェストボイスに近いものに落ちてしまっている。

それは、1フレーズ目の後半「理不尽な世界、開けない夜」の部分に顕著だ。この「開けない夜」はメロディーが上向きの長音符になる。その長音符の部分の響きが明らかに芯が抜けてしまって伸びやかさを欠いている。それと同様に前半部分の「美しさに思わずそっと目を逸らしてしまった」の「逸らしてしまった」に関しては、響きを安定させるために突いたような歌声を出している。本来、彼の低音部は、もう少し力を抜いて響きだけで歌われることが多いが、そうすると響きが定まらなかったのかもしれない。こういう低音域の歌い方をするのは非常に珍しい。

響きが落ちてしまってチェストボイスに変換されそうになるのを辛うじて止まっている。そんな印象を持つ歌声だ。これらの傾向が一番顕著なのは、3月31日にオンエアされた最初のコラボ映像の音源である。その音源よりは若干、MVは安定しているかもしれない。

ただ、中・低音域の響きがフラフラしている為、音程もどちらかと言えば不安定になっている。さらにヘッドボイスへの転換がうまく行っていない。明らかにボイスチェンジしたのがわかるほど、ヘッドボイスはヘロヘロの響きなのである。いわゆる響きの芯が抜けてしまって、元来、彼が持つところの「伸びやかさ」が欠けてしまっている。その為、ジュンスとコラボした瞬間、彼の歌声の響きはかき消されてしまう。なぜなら、ジュンスの歌声には直線的な響きがあり、その音色の方が勝ってしまうからである。これがいい状態の時のジェジュンの歌声なら、彼の濃厚な響きの音色が勝るのだが、そうなっていないところにジェジュンの歌声がいかに不調だったかがわかるのだ。

ただ、彼の歌う様子を観ていると、その不安定さを何とかしようとする姿勢は随所に歌声に現れている。なるべく本来の歌声で歌おうとしているのがわかる。またチェストボイスのポジションに落としてしまった方が歌声は安定するかもしれないが、そこを何とか踏みとどまろうとする意思がそのまま歌声に現れている。

だから、コラボ曲の『六等星』では本来の彼の歌声の良さが発揮できていないと感じるのだ。その上、決して彼の歌声と親和性が高いとは言えないジュンスとのハーモニーは、昔のサウンド以上のものを何も感じさせなかった。

そういう意味からしても、コラボしたメリットを感じることが出来なかったのである。

 

しかし、今回の歌声は、楽曲の全編を通してヘッドボイスで、綺麗に響きを揃えてきている。

この部分一つ取っても、彼の歌声が戻ったのがわかる。

さらに響きに柔軟性が戻ってきている。本来の伸びやかな響きと艶が歌声に戻ってきていた。

また丁寧に一つ一つのフレーズを歌おうとする姿勢は、それだけ彼が歌に対して余裕があるということであり、やっとこの楽曲を自分のものにした、という感じがするのである。

コラボでは、どこか遠慮しながら、相手の出方を探りながら歌っていたのに対し、ソロ曲では自分の思い通りに音楽を作っている。親和性の高い彼の歌声は、やはり相手を選ぶ。自分自身とのコラボなら、そのハーモニーの音色は完璧になる。そういう意味で一度オンエアされた彼自身の歌声とのハーモニーに於いては、音色という点で親和性が高いものだった。これは歌声の波動、響きの波動が同じだからだ。それ以外に何の理由もない。

彼のように常に相手の様子を伺い、相手に合わせようとするタイプは、自分というものをハーモニーで表現しない傾向を持つ。即ち、相手に合わせにいくのである。余程、気心がしれた相手(今までなら城田優)以外には、常に彼が自分の音楽性を相手に合わせに行っている。それは長年、グループ活動でそういうハーモニーの作り方を経験してきているからなのではないかと推察する。

だから、彼が歌手として彼自身の良さを発揮できるのは、やはりソロ歌手としての活動になるというのが私の見解なのである。

 

今回の歌を聴いて、やっと本来の調子に戻ってきたのを感じる。

安定した響きが戻った彼には、あとは歌い込みによる声量を取り戻すことが課題である。

これは歌うことでしか戻すことは出来ない。

しっかり歌い込むこと、歌手としての身体を作ってくることである。

そして、今後、コラボ曲を歌うような場面がある場合は、彼にはしっかり「自分の音楽」「自分」というものを主張することを提案したい。

二つの声と音楽性がぶつかり合って、初めてハーモニーは成立するからだ。

そして、韓国で過ごしている間にも、歌手としての過ごし方を望む。

なぜなら、彼の職業は「歌手」だからだ。