昨日のジェジュンの投稿を私はリアルに全て読んだ。

彼が最初に投稿したもの、その次の投稿、そして夜に出された謝罪文。

その全てを読んでも私は彼の今回の行動を一切擁護出来ない。

彼にどんな個人的事情とどんな思いがあったとしても、今、世界中の人間が戦い、多くの人が命を落としている現実の中で、それは到底理解されるものではない。

韓国語で書いた背景に韓国人への警鐘があったとしても、SNSという媒体を使った時点で、世界中に拡散されることは承知の上だったはずだ。

彼は越えてはいけない線を越えたのだと思う。

 

 

数日前、私はある読者から「声優が歌うことについてどう思うか、プロとしての見解が知りたい」と言われ、ある声優が出した一枚のアルバムを紹介された。その声優の名前はあえて出さない。

私は全く彼のことを知らなかった。そして紹介されたアルバムの楽曲を何曲か聴いた。また、参考にしようと、他の声優が歌っているものも聴いてみた。それは男性に限らず女性もあり、私のようにアニメに疎い人間でも名前ぐらいは知っている人もいた。

そのどれもに私は感動しなかったのだ。

レビューを書く気持ちにならなかった。

そして考えた。

なぜ、彼らの歌に感動しないのだろう、と。

 

これは声優の歌手活動を批判するものでも、誰かを批判するものでも決してない。

声優の中には、コンサートを開き、歌手活動している人もたくさんいることを知っている。

歌手顔負けの声量と歌のうまさを披露している人もたくさんいる。現に私が聴いた彼の歌は決して下手な歌ではない。確かに上手いのだ。

でも私は感動しなかった。

それがなぜなのかを考えてみたかった。

 

 

声優と歌手の違いは何なのか。

どちらも「声」という器官を使って表現する仕事であることに変わりはない。その延長線上に歌があっても、それはごく自然な流れと言われればそうなのかもしれない。

しかし私が聴いた彼のアルバムの歌には、ハッキリ言って、魂を感じなかった。

そう、歌うものの魂。

歌というものに賭ける魂だ。

そういうものを感じなかった。

 

 

今は歌手だけでない、俳優だって歌い、ミュージカルに出る時代だ。

アイドルグループの口パクの歌より、ずっとマトモじゃないか、と言われるだろう。

確かにそうだ。

でもそこまで歌いたいなら、なぜ歌手にならないのか、と単純に疑問を持つ。

声優であることが彼の中の一番であり、歌は二番目なのではないのか。

 

 

歌手が映画の吹き替えをし、声優まがいの仕事をする。

声優は歌を歌い、ミュージカルの舞台を踏む事もある。

そういうボーダーレスな流れが広がっている。

誰もが少し声が良ければ、歌い、誰もが吹き替えをする。

声優と歌手の境目が曖昧になっていく。

そんな流れの中で、頑なに歌手活動だけにこだわり続ける歌手も多い。

 

 

歌は古来から多くの人の心を癒してきた。

音楽を始め、美術、演劇、文学という芸術活動は、文明の発達と共に人間だけが手にした表現活動だ。

それらを使って人間は自分の感情を表現してきた。

それらは作り手を離れ、同じ感情を持つ人達の心を慰め、励まし、時には人生を変え、時には命をも救う。

たった一曲の歌、たった一枚の絵、一冊の本が、その人の人生を変えたという話は山のように存在する。

なぜ、音符の羅列でしかない曲、紙切れでしかない絵、文章を綴ったものが、そこまでの影響を人に与えるのか。

それはそこに表現するものの魂が込められているからに他ならない。

それらを作り出す時の葛藤、苦悩、さらに情熱が込められているからだ。

 

だから、人はその魂に触れることで感動する。

自分のどうしようもない感情や、処理できない感情をその作品の魂の中に同じものを見つけ出す。

そこに共感が生まれ、感動が生まれるのだ。

 

ある人にとっては何気ない一曲が、ある人にとっては人生を大きく変えることもある。

何気なく手に取った一冊、何気なく入った美術館の中で出会った一枚の絵。

そんなものに気持ちを救われた経験をした人は数限りなくいるはずだ。

芸術とはそういうもので、そこにはそれに携わるものの魂が込められているからこそ、それらの感動を呼ぶのである。

 

 

多くの歌手の歌を聴いてきて、「歌う」ということに真剣に取り組み、魂を込めて歌う場面を何度も観てきた。

その歌の背景に、その歌手が「歌」というものに取り組むスタンスが見える。

 

「歌」だけではない。「生きる」ということへのスタンス。そして、その先に必ずあるものは、人間性だ。

どんなに上手い歌を歌われても、感動しない歌手もいる。

その歌にその人の人間性が垣間見えるからである。

その人の物事へのスタンス、歌に対するスタンス、音楽へのスタンス、そして人間としてどうあるのかというスタンスだ。

それらを歌は忠実に映し出す。

だから、「歌」に情熱を賭けていない場合、すぐにわかる。

その人にとって「歌」がどのようなポジションであり、どれだけの情熱を傾けているのか、そんなものは歌を聴けば丸裸になるのである。

 

前出の声優が「歌」に情熱を賭けていないとは言い切れない。私がただ感じなかっただけなのかもしれない。

けれども「歌」に全てを賭けて生きている人間と、「声優」という切り札を持って歌っている人間とでは、「歌」に対する情熱は自ずと違うはずだ。それなら、その熱量に合わせて感動もある。

 

私は歌ってきた人間として、どんなにうまく歌われても、そこに歌うことへの渇望を感じられない人の歌には感動しない。

声優の歌には、その「渇望」が感じられなかった。

 

 

ジェジュンは、韓国人でありながら、多くのJPOP曲をカバーしてきた。

グループを抜けて日本活動が打ち切られた後の8年。

彼は歌手であることにこだわり続け、歌える場所を探し求めた。

どんなに俳優活動しか仕事が与えられなくても、彼の中から「歌」は消えなかった。

それは、彼の中に「歌う」ことへの渇望があったからに他ならない。

「歌えなければ死ぬ」のではないかと思えるほど、彼の歌への渇望を感じた。

そうやって歌手として求め続けた場所が日本だった。

 

この2年、彼は日本の歌手ではないのかと見紛うほど、日本語の歌を表現した。

彼の歌った「Love Covers」のアルバムにレコード大賞の企画賞が贈られ、それはゴールドディスク賞をも獲得した。

そこには、韓国人でありながら彼の表現する日本語の歌に多くの日本人が感動したからだ。

彼の歌う尾崎豊の歌に、尾崎と同化するのではないかと思えるほどの魂を感じた人は少なくなかったはずだ。

そこには彼の人間に対する迸るような愛情や、豊かな感情、そして思いやり、他人の感情への深い理解、そして何より、歌うこと、音楽へのあくなき渇望が溢れていた。

彼が歌うJPOPの曲に多くの高い評価が集まったのは、一重にジェジュンという歌手の魂を感じ取ったからに他ならない。

また、歌手としての優れた一面とは別に、バラエティ番組やトーク番組での彼の発言に彼の人間性を感じ取った人も数多くいたはずだ。だからこそ、この日韓情勢悪化の中でも彼だけは多くの日本人から好意的に受け入れられていたと言える。

 

彼の日本での活動は開始当初こそ苦労したが、順調に階段を登ってきた。

それは彼が積み重ねてきた努力の証であり、歌手ジェジュンという存在が日本社会の中に受け入れられてきた証拠でもあった。

バラエティに出れば芸人達から明らかに可愛がられた。

NHKは彼を頻繁に起用した。

それは、この情勢の中で韓国人の彼にラジオのレギュラーゲスト枠を与えるほどの破格の扱いだったと言ってもよい。

そうやって彼は今年も一昨日まで順調に活動をしたのだ。

 

その全てのものを彼は、たった1通のSNS投稿で台無しにした。

 

それはそこにどんな事情があり、彼の思惑があったにしても、ファン以外、到底受け入れられるものではない。

 

NHKは公営放送だ。

そのNHKが、彼のコロナ感染の投稿を第一報として報じた。

この失態は公営放送の顔に泥を塗ったのと同じことになる。

今まで彼を積極的に起用してきた影に、関係者の多くの努力があり、世論との軋轢の中でも起用してきた背景がある。

その顔に泥を塗ったのだ。

どんなに謝罪しても言い訳をしても弁明しても、それは通らない。

ファンは彼が自分を犠牲にしてまでコロナ感染の怖さと警鐘を鳴らしたかったと擁護するが、それは通らない。

それは彼側の言い分であって、一般社会に通用するものではない。

彼は自分が投稿することでどのような影響があるのかを知った上で、それをあえて利用した。

それほどに自分の影響力を知っているなら、別の方法があったはずだ。

方法は間違っていたかもしれないが、言っていることは正しい、と受け入れるのは、ファンとほんの少数の人間だけだろう。

今、現在、ウイルスと闘っている人達を思いやり、少しでも感染を食い止めたいと思うなら、別の方法があったはずだ。

彼の軽率な発言は、到底、一般社会に受け入れられるものではない。

だからNHKは彼を出演させず、弁明の場所を与えなかった。

今後、彼がレギュラーゲストに復帰できるかどうかはわからない。

 

これは、今まで彼がエイプリルフールに行ってきたいくつかの悪ふざけとは全く性質の異なる次元の話なのだ。

多くの人間が感染し、多くの人間が命を落としていく。

その中には、グローバルな彼のファンがいるという想像は働かなかったのか。

 

そして彼は、歌手ジェジュンがこの2年、血の滲むような努力の上に築き上げてきた歌手としての功績にも泥を塗った。

最近、彼のファンになった人達、彼の歌に好意を持っていた人達を失望させた。

彼の歌を聴くたびに感動を覚えていた人達に違う記憶と感情を与えたのだ。

やっと取り戻した歌手としての活動の場所を彼は自ら放棄した。

彼の歌を聴くたびに多くの人は今回のことを思い出す。

そんな彼の歌を聴きたいと誰が思うだろう。

歌手ジェジュンは歌う場所を失ったのだ。

楽曲に魂を吹き込むのは歌手だが、楽曲は歌手のものではない。

彼は、彼のために書かれた楽曲が正しい評価をされることを阻害したのだ。

それはある意味、楽曲を台無しにする行為に等しい。

 

 

彼はその投稿をするときに一瞬の躊躇いもなかったのだろうか。

あれほどに他人を思いやり、愛情深く、我慢強く、どんな試練にでも笑顔で耐えてきた。

その感情のひだは、歌の表現力となって、多くの人の心を慰め、救ってきたはずだ。

彼の歌声は癒しにこそなれ、不快なものになるはずはなかった。

 

歌は多くの人に感動を呼ぶ。

しかし、その歌の背景にある歌手のありようは、その歌に大きな影を落とす。

 

今、世界中のアーティストが活動する場所を失っている。

歌いたくても歌えない。

その中には生活が困窮しているアーティストも少なくない。

だからドイツ政府は、「アーティストは必要不可欠であるだけでなく、生命維持に必要だ」として大型支援に乗り出している。

そこには、芸術活動への深い理解とそれを与える存在であるアーティストへの深い敬愛を感じる。

芸術が人の感情を救い、人の気持ちの拠り所になり、命までも救うことを知っているのだ。

芸術とは本来、人々を癒すものであって、不快な感情を与えるものではない。

 

彼の歌に罪はなくとも、彼が歌うという事実に不快感を覚える人は少なくない。

何度も書いてきたように、単に音符と言葉の羅列であるものに魂を吹き込み、音楽にするのは、歌手の仕事だからだ。

 

歌手が歌うからこそ、歌は生きるのだ。

歌手に歌われることで、生命を与えられ、多くの感動を呼ぶ。

歌手の仕事とは、本来、そういうものである。

だからこそ、その作品に命を吹き込む歌手の人間性が問われるのだ。

どんなに心を揺らす歌声であっても、歌声の背景にその歌手の人間性が投影される。

彼が行った行為というものは、歌手ジェジュンが命を吹き込んできた楽曲を台無しにしたのだ。

彼の歌声を聴いて、元気を貰ったり、明るい気持ちになったり、気持ちが救われた人達の心に影を落としたのだ。

救われた気持ちになった思い出に別の記憶を与えたのだ。

 

歌う場所がない歌手が多い中で、番組に出演し、歌える場所が与えられる人間はごく僅かの存在だ。

その人達は、歌えない歌手の思いも背負って歌わなければならない。

自分が出演する陰で、確実に誰かが出演できなかったのだ。

そういう責任を公共放送番組に出演する人間は負う立場であるということを彼は忘れている。

 

 

彼が明日の番組に出演できるとは到底思えない。

彼が出演し、新曲のダンス曲を楽しく歌い踊る姿を観て、不快に思わないのはファンだけだろう。

どんなに反省していても、楽しく踊る曲である限り、歌手としてそのように振る舞わなければならない。

その姿を観て、彼が反省していると一体どれだけの人間が思うだろうか。

 

 

 

彼は本当に一瞬も躊躇わなかったのか。

その投稿をするとき、あえてそれでも投稿したというなら、弁解の余地はない。

 

彼がこれから払う代償は余りにも大きい。

その代償は一生かけて償っても取り返せるかどうかわからない。

単に軽率だった、やっちゃった、という次元は超えている。

このまま韓国へ戻り、もう二度と日本で活動出来ない可能性もある。

 

あれほどの思いで取り戻した場所を失う。

 

残念だという言葉では、言い尽くせない。