非常に丁寧に歌われた歌だった。

一言、一言を丁寧に紡いでいく。

そう感じた

尾崎豊の「Forgret-me-not」はアルバムにも収録されており、幾度となくライブでも聴いた。

いつも全身全霊で歌う、という印象が強かった。

初めてこの曲を彼がライブで歌うのを聴いた時、尾崎豊の声色に似せている、という印象さえあった。それが彼の言う「尾崎さんを歌う時は必死に歌わないといけない」という曲へのアプローチの仕方のようも取れた。しかし、今回の歌の印象はちょっと違った。

 

彼は「キーをあげないといけないかな」と思った、という言葉通り、確かにこの歌は彼の表声の高音の限界キーに近いと思われる。しかし私はそれよりも前半の歌い出しからサビまでのフレーズに彼のこの曲に対する進化を感じる。

 

この日の彼の歌い出しは文句のつけようがなかった。非常に丁寧に言葉を一つずつ噛みしめるように歌い始める冒頭部分は、静かな曲の始まりだ。この楽曲の「静」の部分がずっと綴られて行く。その部分を彼は非常に丁寧に歌ったと感じる。

この「静」の部分だけを聴いているとその後に展開されるサビの激しさを想像出来ないほど、この楽曲には「静」と「動」の人間の持つ二つの感情が埋め込まれている。

 

東方神起の頃、私が彼の音楽的才能の何に惹かれたかと言えば、この「歌い出し」のうまさにあった。

リードボーカルでメインボーカルを取ることの多かった彼は、サビの部分の歌声に惹かれてファンになる人が多いが、私は彼の「歌い出しの上手さ」に惹かれた。

彼は曲のイントロを受けての歌い出しが抜群に上手かった。それはバラード、ダンスナンバー、何のジャンルに於いても抜群だった。

曲のイントロが持つ音楽の雰囲気をそのまま受け取って音楽を繋いでいく。イントロからの音の受け取りが自然で、歌い出しが非常にナチュラルなのだ。彼が歌い出すと音の世界から歌の世界へと自然に入っていける。また彼の歌い出しがイントロから感じる楽曲の印象をそのまま受け継ぎ、さらにイメージが増幅される。

楽曲の持つ音楽性、音楽の世界、そういうものの雰囲気を感じてそれを歌に現す能力が非常に高かった。彼の歌い出しによって楽曲の雰囲気が壊れることは一度もなかった。それぐらい音と同化した歌い出しであり、イントロからの音の受け取り、音楽の受け取りが抜群に上手い人だった。

この能力は、彼だけが持つ能力だと感じた。感受性が非常に豊かで、何も教えなくても楽曲を聴けば、その楽曲の音楽性を深く感じて歌に具現化する能力のある人だと思った。彼の歌い出しの能力に私は音楽をする人間として敬服したのだった。

 

その歌い出しの能力を思い出した。

彼が何度も歌い込んできたこの曲のサビの部分の絶唱とも言える歌は、この曲を歌うと発表された時点で容易に想像がついた。何度も歌い込まれた歌であり、彼にしたら、尾崎豊のカバーと言えば、この曲に限っては安定した歌がある程度歌えるという自信もあると思われた。だから、どのように歌うのかはある程度、予想できた。あとは、彼がこの2年間の歌手活動の中での進化が久しぶりに歌うこの曲に現れているかどうかを知りたかった。

2年という歳月、日本で歌い込んできたこの曲を久しぶりに歌う時、歌手としてのアプローチの仕方に変化があるかどうかが非常に興味深かったのだ。

 

「小さな朝の光は 疲れて眠る愛にこぼれて」

 

この歌い出しを聴いた時、彼の日本語に対する理解力の進化を感じた。それは、言葉の持つリズム感が今までの何度も聴いた「Forget-me-not」やアルバムに収録されているこの曲のどの演奏とも違うと感じたからだ。

日本語そのものが持つわずかなリズム感、それを彼が表現しているのを感じた。それは話し言葉ではなく、歌として歌う日本語の難しさを彼が克服し始めたのを感じさせた。

 

彼は日本語を話すことが非常に堪能である。助詞や受動態、能動態の使い方という文法上の誤りは時々起こるが、それらを除けば発音において、また言語数において、ほとんどネイティブに近いほど綺麗な発音と流暢な日本語を話す。それは話し言葉に於ける日本語が彼の中で母国語に近いほど、日本に滞在期間に鍛えられている結果のように感じる。

しかし、以前、記事にも書いたように、「日本語を話す」という能力と「日本語を歌う」という能力とではその間に大きな隔たりがある。どんなに流暢に話せても、「歌う」という能力は全く別物なのだ。

日本人ですら、「歌う」ときは、日本語を意識する。外国人である彼にとっては尚更のことである。普段話すように流暢に歌うことがどれほど難しいかは、自分が歌えるかどうかを考えてみればいい。録音して聴けば、話し言葉とは別物の日本語が聴けるだろう。

日本人歌手でも、フレーズによっては何を歌っているのかわからないことがある。それは日本語の歌詞の言葉のリズム感が掴めていないからであり、歌うための言葉のリズム感を把握できていないからだ。

 

ジェジュンもソロデビュー後のカバー曲を含む曲の中には必ず、言葉の不明瞭な箇所が存在していた。それは彼が歌うための日本語のリズム感と話し言葉のリズム感の違いに気がついていない、または指摘されていないことから来るものだと感じていた。

しかし、この日の彼の歌は違った。

彼の歌言葉の日本語が見事だったのだ。それはこの曲だけに限らず、もう一曲の「ワインレッドの心」でさらに感じることが出来る。

 

彼は確実にJPOP歌手として進化していると感じた。